呼称「九谷焼」と銘「九谷」はいつ頃から始まったか
日本のほとんどの焼き物は大量に生産され広く販売されると、瀨戸焼、唐津焼、備前焼、伊万里焼、京焼などのように、その産地(地域)名で総称された一方で、一部に「仁淸」「乾山」「六兵衞」「道八」などのように、名工の号で呼ばれました。それでは「九谷焼」という呼称についてどうかと言うと、江戸初期に九谷村に開かれた古窯で焼かれた焼き物(古九谷のこと)においても江戸末期に加賀地方の諸窯が次々に開かれ焼かれた焼き物においても、大量に生産され広く販売されなかったので、広く総称で呼ばれることはなかったと考えます。
「九谷焼」という呼称は吉田屋窯から始まりました
九谷村で焼かれた古い焼き物について、享和3年(1803)大聖寺藩士、塚谷澤右衞門が著わした「茇憩紀聞」の中で、陶器場の所在地、ものはら、窯道具、朱石と陶石の状況、そして開窯の時期を示す「明暦元年六月廿六日」銘の花瓶の存在などが記述されていても、明確に「九谷焼」と記載されていないといわれます。
その後、文政7年(1824)に大聖寺の吉田屋傳右衞門が大聖寺藩内の九谷村で「古九谷」を焼いた窯と言い伝えられてきた古窯跡の脇に新たに窯を築いて磁器を焼き始めた頃から、九谷村の地名をとって「九谷焼」の呼称が使われ始めたといわれます。九谷村の吉田屋窯は文政9年(1826)に山代に移され製品がその地で焼かれても“山代焼”と呼ばれずに「九谷焼」と呼び続けられました。この窯の製品は加賀国内にとどまらず、京や大阪にも愛好者がいたといわれています。これと合わせて、江戸初期に九谷村の古窯で焼かれた伝世品を、吉田屋窯と区別するため「古九谷」と呼ぶようになったと考えられます。
ただ、古い文献の上では、嘉永年間(1848-1855)の「本朝陶器考證」や、安政2年(1855)の京都の田内梅軒の著わした「陶器考附録」並びに安政7年(1860)の「朝陶器大概抄」において、再興九谷のことに少し触られていても「九谷焼」としては未だ明記されず、明治時代になってやっと「九谷焼」とよばれた焼き物について記述された文献が初めて出されました。それは明治10年(1877)旧大聖寺藩士、飛鳥井淸(明治12年九谷陶器会社を創立)が著わした「九谷陶窯沿革誌」でしたが、“江沼郡の九谷焼”にとどまりました。
「九谷」銘が書き込まれたのはどうしてか

吉田屋窯製品の高台内に書かれた「九谷」
「九谷焼」の呼称が加賀国の内外共に広がっていくと、「九谷」銘が製品に書き込まれました。当初は、吉田屋窯の製品の一部に「九谷」銘が書かれましたが、伝統的な「福」銘の添え書きのような位置にありました。

「九谷」銘が明確に書き入れるようになった最初が京焼の名工 永楽和全によって制作された九谷本窯の作品でした。和全が慶応2年(1866)に大聖寺藩の御用窯である山代の九谷本窯に招聘されたとき、その窯で制作された作品に「於九谷」または「九谷」の銘を書き入れました。おそらく、和全は、吉田屋窯以降、「九谷焼」と呼ばれていたことから、「九谷焼」の産地で自分が製作したことを示めすためにそうした銘を書き入れたと考えられます。

明治になると、多くの名工たちが「九谷」と「屋号」を作品に書き入れるようになりました。上の画像は左から「阿部(碧海窯)/松雲堂」、「相鮮亭(浅井)一毫」「(清水)美山」「(八田)逸山」の銘です。いずれも「九谷」を冠として「九谷焼」を誇りにしていた様相がわかってきます。こうして“ジャパンクタニ”が欧米で開催された万博などで高い評価を受けましたが、九谷焼の輸出が盛んになりました。「九谷」銘が優品を示すブランド名のように受け取れました。ただ、残念ながら、「九谷」銘が書き込んだ粗製乱造された産業九谷の製品があったことも事実でしました。
参照;九谷焼の銘
