宮本屋窯

*2024年5月~2026年6月の間、全国6カ所の美術館を巡回・開催する「九谷赤絵の極致」展-宮本屋窯と飯田屋八郎右衛門の世界-に合わせて本稿の内容を加筆修正することがあります。

天保3年~安政6年(1832~1859)

窯の歴史的意味

江戸末期、九谷焼には、五彩の色絵磁器とは趣を異にした、赤絵(若干の色釉や金彩を施したものもある)や金襴手(赤地金蘭手)があった中、ひと際、宮本屋窯の赤絵は「九谷赤絵」を極めたといえます。その赤絵は赤色を多用したうえ、赤色の細い線で図案や文様を描いた、他の赤絵と比べて特異であったことから、その作風を生み出した飯田屋八郎右衛門の名から「八郎手」あるいは「飯田屋」と称賛され、吉田屋窯に代表された「青九谷」と肩を並べるほど加賀の国中に広がりました。

再興九谷には、春日山窯の呉須赤絵写し、若杉窯の赤色を多用した色絵、民山窯の鈍く光る金彩を施した赤絵、九谷庄三が宮本屋利八(宇右衛門の子で、開窯当初から経営に携わった)から修得したという(未だ確かではないが)赤を多用した作品、宮本屋窯が開かれる直前に開窯した木崎窯、さらに、宮本屋窯から少し遅れた佐野窯の佐野赤絵などがあり、そうした中でも宮本屋窯の赤絵は微細というほどの線描であったことから「九谷赤絵」の極致と賞讃されました。

こうした宮本屋窯の赤絵であったからこそ明治九谷に大きな影響を与えたのも自然で、明治期に活躍した浅井一毫は、晩年の八郎右衛門から「八郎手」の技法を受け継ぎ、明治から大正にかけ、その技法が江沼地方に広がり、宮本屋窯以来の「九谷赤絵」として高く評価され、九谷焼の代表となる作風となりました。それも宮本屋窯の「八郎手」の赤絵が極めて優れていたからと考えます。

窯の盛衰

吉田屋窯の末期、宮本屋宇右衛門は窯の支配方として窯の運営を任されましたが、窯の業績が良くならず、ついに天保2年(1831)吉田屋窯が閉じられましたが、その翌年の天保3年(1832)に、宇右衛門は吉田屋より旧吉田屋窯を譲り受けて宮本屋窯として開きました。宇右衛門は、当初、吉田屋窯風の青手の製品を造りながら(誰が陶工であったかは不明)、素地工に若杉窯の陶工であった木越八兵衛を、陶画工に大聖寺の染色職人 飯田屋八郎右衛門をそれぞれ主工として招き入れ、製品の転換を徐々に進め「赤九谷」に集中させていきました。素地は赤色が映える、やや青みを帯びた白い素地に改良し、彩色については当時の人々が求めた赤絵や赤絵金彩に変えました。その結果、この窯の作品は吉田屋窯の「青九谷」と比べ「八郎手」とか「飯田屋」あるいは「赤九谷」と呼ばれて窯の経営も順調となりました。

しかしながら、宇右衛門が弘化2年(1845)に歿すると、宇右衛門の弟 理右衛門が窯を受け継いで事業が承継されましたが、嘉永5年(1852)、絵付の主軸であった八郎右衛門が48歳の若さで没したことから、衰退していきました。若杉窯の陶画工 軽海屋半兵衛が絵付に腕を振るったといわれましたが、安政6年(1859)、理右衛門が歿するに及んで宮本屋窯は閉ざされました。

主な陶工たち

飯田屋八郎右衛門

飯田屋八郎右衛門は、もとは大聖寺にあった染物屋の職人でした。加賀友禅などの染色の技法を絵付に活かしたとみられ、細密な描写に優れた手腕を見せ、赤絵細描の技法を完成させました。八郎右衛門は独自の感覚で赤絵を改良し、民山窯の赤絵細描をさらに細密にするなど、独自の技法で赤絵細描画を器の全面に表現しました。これがいわゆる「八郎手」といわれるものでした。特に『方氏墨譜』(明の方干魚著 全8巻 万暦16年刊)から題材を取り入れたことで作品がより高尚となりました。八郎右衛門は越前国(現、福井県)の気比神宮に所蔵されていた『方氏墨譜』を書き写して、その写しから題材を得た作品が多くあります。人物(唐人)・山水・楼閣・草花・禽獣(龍)などを赤色で緻密精巧に線描き、その作風は、他に比べようもないほど、赤絵細描を極めました。こうした八郎右衛門の画業を自ら「八郎墨譜」にまとめました。

軽海屋半兵衛

軽海屋半兵衛は、文政のころ若杉窯に従事していましたが、嘉永5年(1852)に八郎右衛門が歿したあと、宮本屋窯に呼び寄せられ、この窯が閉ざされるまでの7年間ほど作品を制作したといわれています。

作品の特色

宮本屋窯で使われた赤色は“柿右衛門の赤”よりやや濃く、しかも光沢があり、厚く塗られても濁りがなく透明感があります。弁柄(吹屋弁柄)の特質が活かされるように手を加えて用いました。その赤色がほかの再興九谷の窯のものと異なっていて、赤色の色あいは濃厚でやや黒っぽく、いわゆる“血赤”と呼ばれます。若杉窯の赤色は“ペンキ赤”と称されるように強烈であり、民山窯の赤色は臙脂赤に近く、また小野窯の赤色は姫九谷といわれるほど鮮やかで、佐野赤絵に近いといわれます。

作品の中には「方氏墨譜」から高尚な中国風の題材を得てそれを弁柄の赤色で精緻に線描きし、どの作品も繊細な筆致を極め、当時の「九谷赤絵」の中で最も精美であるといわれます。

また、宮本屋窯では小紋などで余白を埋めることが少なく、間取り(割取)を取っても画題を輪郭内に閉じこめることがなく、全面に奔放に描かれます。そのために多くの彩釉を用いず、単彩(赤色)で描き(部分的にくすんだ黄色、緑色を取り込んだ作品もある)、あるものには金色を全く省いているものがあります。

宮本屋窯では、赤絵のほか、花鳥・草花文様を主とする色絵、吉田屋窯から受けついだ、緑・紫・黄の三彩を主調とした「青九谷」も若干造られました。

器種 

各種の茶道具、装飾品を中心にして若干の日用品(徳利や盃)が見られます。近年、伝世品がやっと明らかにされたところで今後の解明が待たれます。

角「福」の字が多く、末期の作品には長い角の中に「九谷」と書かれたものも見られます。

 

註;「八郎手」についての詳しい解説 「八郎手」を知る

 

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