蓮代寺窯
弘化4年~慶応元年頃 (1847~1865頃)

窯の歴史的意味
松屋菊三郎は吉田屋窯が閉じてから途絶えていた青手古九谷の再現に、粟生屋源右衛門の助けを得て取り組みました。源右衛門が能美郡蓮代寺村(現小松市蓮代寺町)で磁器と陶器を制作していた窯を譲り受け、この窯を磁器の素地窯として改造した上で蓮代寺窯を開き、古九谷以来はじめて五彩で彩られた作品を制作することに成功しました。
当時、再興九谷の諸窯では失敗の少ない赤絵か、絵の具のはく落の少ない色絵を焼き、青手古九谷に取り組まなかったのは、明確な理由は判明しませんが、能美地方の素地に絵付することが難しかったためといわれます。菊三郎がこの困難とされた絵付について自らの研究と経験を活かして五彩で絵付することに先鞭をつけた功績は大きいと言えます。
こうして、古九谷の再興の流れは、再興九谷においては源右衛門から菊三郎に渡ると、蓮代寺窯から松山窯に引き継がれ、青手古九谷が再興されることとなりました。さらに、明治元年(1868)、松本菊三郎(松屋から改姓した)が八幡の窯を子の松本佐平に譲って隠居すると、いわゆる「青九谷」の流れは佐平に受け継がれ、さらに佐平の義弟 初代 徳田八十吉につながり、三代 徳田八十吉の彩釉磁器(*)に発展していきました。
(*) 彩釉磁器とは、通常、絵付窯の中で色釉を低火度(800度)で焼きつける色絵磁器と区別して、本焼窯の中で素地に色釉を1200度で焼き付けたものをいいます。完成品にはおのずから同一のものがなく、彩釉磁器にはより高い透明感と深みが得られます。この彩釉磁器を考案した三代 徳田八十吉は重要無形文化財(人間国宝 )に指定されています。
窯の盛衰
蓮代寺窯は、弘化4年(1847)、能美郡蓮代寺村(現、小松市蓮代寺町)に小松の松屋菊三郎が主宰して開かれました。それより先に、菊三郎は、天保4年(1833)から源右衛門に師事して製陶を学び、同10年(1839)から弘化3年(1846)まで各地で製陶と絵画を修めて帰郷すると、小野窯の一時的な支援を行ってから、源右衛門の運営していた窯を譲り受けて蓮代寺窯を開きました。
菊三郎は磁器のための素地の製作に取り組みましたが、当初、陶石に土まじりがあったため、出来上がったものは陶器質のものが多く、色相は黄緑色を帯び、磁器の素地になりませんでした。やがて、改良され、五彩が絵付できるまでになりました。その素地は古九谷や晩期の若杉窯の素地に近くなり、その素地に明の五彩風の上絵をのせることに成功して五彩の磁器が焼かれるようになりました。
しかしながら、多くの徒弟を養い、将来の隆盛を期待されたものの、能見郡で焼かれた佐野窯の赤絵や庄三風の製品に対抗することができず、慶応元年頃に閉窯となりました。
主な陶画工たち
粟生屋源右衛門
粟生屋源右衛門の陶歴については、青手古九谷を再現した粟生屋源右衛門と松屋菊三郎を参照
してください。
松屋菊三郎
松屋菊三郎の陶歴については、青手古九谷を再現した粟生屋源右衛門と松屋菊三郎を参照
してください。
そのほか 川尻嘉平・中小路七蔵・大蔵清七などがいます。
作品の特色

この窯の作品は古九谷のように五彩で絵付されたことです。初め、素地が陶器質のものが多かったものの、次第に改良されるようになってから、呉須赤絵風のもの、あるいは古九谷写しなどが五彩で制作されました。大きく曲面した大ぶりの平鉢には優品が多いといわれています。
作品から受ける印象は、胎土に鉄分を含んでいるため茶褐色を帯び、緑・紫・黄などの絵の具の発色が悪くなり、全体的に暗い感じを受けます。
描写法の特色は黒い線の上に緑色調を帯びた色釉を施した古九谷に近く、青手古九谷を意識した作品があります。
器種
鉢が主です。
銘
角福が主ですが、古九谷の一部に見られる裏銘のように一見して分からない字(「寫」のようにみえますが)のものがあります。
