木崎窯

天保2年(1831)~明治28年(1895)
窯の盛衰

木崎窯は、天保2年(1831)、木崎卜什によって開かれました。卜什は京都に出て絵画を学び、有田で陶画を学んだ後、帰郷して、当初は山代新村(にむら)自宅内に築きました。色絵、赤絵細描に優れ、江沼赤絵の祖と言われました。安政元年(1854)44歳で没しました。

卜什を継いだのが長男の万亀でした。万亀は、弟の千左衛門と共に、幼少より卜什から陶法を習っていて、窯は万亀が継ぎました。万亀は藩命で京都の永楽和全に師事し陶法を磨き、翌年、法橋に叙され、文久2年(1862)に帰郷すると、山代新村の窯を春日山(山代温泉共同浴場背後の山)に移しました。慶応元年(1865)、和全が九谷本窯の指導に招かれた際、木崎窯でも製陶しました。しかしながら、この窯は、明治3年(1870)頃、共同浴場で起こった火災の延焼を受け、その年、万亀は山代村18字115番地に築き、明治28年(1895)に歿するまで、窯は焚き続けられました。

主な陶工

木崎卜什

木崎卜什は飯田屋八郎右衛門が赤絵金襴手を始めた数年前の天保2年(1831)に赤絵金彩を始めました。京都との間を何度となく往復して技量を磨くうち、嘉永元年(1848)、仁和寺御室御坊から法橋(中世以来、医師、仏師、絵師、蓮歌師などに僧衣位に準ずる称号)に叙せられて卜什の名を賜りました。

主な陶歴

文化7年

(1810)

江沼郡郷士、二代木崎清右衛門の次男として生まれ、幼名重蔵、後に清右衛門と称した
文政7年

(1825)

16歳のとき、京都に出て、狩野派の絵画を学ぶ
文政10年

(1825)

18歳のとき、京都から諸国に向け遊歴し、有田、唐津に至って陶画を学ぶ
文政12年

(1829)

20歳のとき、京都に戻り、再び、五条坂に清水焼に学ぶ
天保2年

(1831)

22歳のとき、帰郷し、兄平兵衛が木崎本家を相続したので、木崎家分家の三代清右衛門を襲名した。自宅邸内に窯を築き、赤絵を創始しました。緻密な紋様を描き、金彩を施した。九谷赤絵がここで始まったとされる
嘉永元年

(1848)

39歳のとき、法橋に叙され、卜什の名を賜り、仁和寺御室御坊に出仕となり隔年毎に参代した
嘉永3年

(1850)

41歳のとき、彦根藩に聘せられ「赤水」銘で湖東焼の作品を制作し改善に力を尽くした 翌年、窯を万亀に引き継ぐ
安政元年

(1854)

45歳のとき、帰郷した。その後、歿した

木崎万亀

木崎万亀は幼少より父卜什から陶法の教えを受け、嘉永4年(1851)、この窯を継ぎました。万延元年(1860)、藩主の命により京都の名工 永楽和全に師事し、腕を磨き、翌年、法橋に叙せられて万亀の名を賜り、父と同様に仁和寺に出仕しました。

主な陶歴

天保5年

(1834)

卜什の長男として山代新村に生まれ、幼名 清与衛門、後に清右衛門と称した
嘉永4年

(1851)

17歳のとき、木崎家4代を継ぐと共に窯を継いだ
万延元年

(1860)

27歳のとき、藩主の命により永楽和全に師事し陶技を磨いた
文久元年

(1861)

28歳のとき、法橋に叙さられ万亀の名を賜り、仁和寺御室御所へ出仕となる
文久2年

(1862)

29歳のとき、卜什が築いた窯を春日山に移し、藩主にその地を賜り、次いで居宅をここに移しました
慶應元年

(1865)

39歳のとき、永楽和全が山代に来て九谷本窯の再興に尽くした際に、弟千右衛門と共に和全を補助した。その後、和全は万亀の窯で製陶し寝食を共にした
明治3年

(1870)

37歳のとき、山代村18字115番地に転居し、歿するまで窯を焚き続けた
明治28年

(1895)

62歳のとき、歿した。その後、窯も閉ざされた

木崎千右衛門

木崎千右衛門は、天保9年(1838)、木崎卜什の次男として山代新村に生まれ、幼児より兄万亀と共に卜什から陶法を学びました。慶應元年(1865)、27歳のとき、永楽和全が九谷本窯に招かれ滞在したとき、兄と共に和全の制作を補助したといわれます。

慶應3年(1867)、29歳のとき、分家し、大聖寺耳聞山に転居し、自宅に窯を築き、製陶しました。明治41年(1908)に70歳で亡くなりました。

大蔵清七(後の寿楽)

大蔵清七は、連代寺窯、松山窯、九谷本窯と再興九谷の諸窯で陶工として腕を磨き、卜什や万亀から陶法を学び、さらに永楽和全が山代で製陶を行った際に門下となり、寿楽の号を和全から受けました。明治になって、清七は大蔵窯を築き、その製品は白素地や染付したものもあって、良品であると評判になりました。

作品の特色

石川県九谷焼美術館 紀要「九谷を拓く」第5号から

卜什・万亀の作品は江沼地方で余り残されていなく、左の画像のとおり、卜什が描く赤絵金彩は飯田屋八郎右衛門の赤絵細描「八郎手」に影響を与えたといわれるほど、赤絵細描の先駆をなしたといわれます。また、右の画像のとおり、万亀の金襴手は師であり山代で寝食を共にした永楽和全から修得した技術でもって赤地の上に金彩し上から針金で削って線で描かれた図案が精巧であり、急須の形状にも巧妙で風雅な趣が見られます。卜什・万亀とも京都の仁和寺御室御所へ出仕した法橋であったので、多くの作品の作風が京焼に近く、作品も京都で高く評価されたといわれます。

二重圏内に「木崎」の刻印がされ、また「大日本於九谷木崎造之」が赤書されたものがあります。

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