「赤色」を多用した日本の陶磁器
我が国の古くからの陶磁器の中には「赤色」の際立つ色絵陶磁器があります。柿右衛門が中国磁器の五彩(白磁に赤・青・黄・緑・紫で絵付した色絵)に憧れ、やがてそれが“柿のような美しい赤色”を開発することとなり、仁清が色絵陶器に、また奥田潁川が呉須赤絵写しに「赤色」を用いました。このほかにも「赤色」に惹かれた陶画工たちが焼いた「赤色」の際立った九谷焼を観てみます。
柿右衛門の“柿のような美しい赤色”
初代 柿右衛門は、自分の想う「赤色」が手本とした中国磁器に見いだせず、試行錯誤の末に濁手の磁胎に合った“柿のような美しい赤色”を見つけましたといわれています。そのことを家訓にして、歴代の柿右衛門は初代の見出した“柿右衛門の赤”を秘伝にして「赤絵具覚」に代々が書き残してきました。

“柿右衛門の赤”は原料の一つ“ろくはん”を造ることから始まりました。それは水を張った大きな壺の中に酸化鉄を入れ、10年という長い歳月をかけて塩分を抜き、その上で酸化鉄の粒子を小さく細かくすることから始まりました。微細にすればするほど、“柿右衛門の赤”になることを見つけ、一つ色を創るのにも手を抜かなかったといわれます。こうしてできた“ろくはん”をガラス質の材料などと混ぜて“すり”作業を繰り返しました。
水簸、“すり”、原材料の調合などによって色相の微妙な違いを出しました。“柿右衛門の赤”といっても、「赤カバ」(黒みが強い;輪郭などの縁を描くため)、「濃赤(だみあか)」(朱色に近い;柿の実を絵付するため)、「花赤」(“柿右衛門の赤”を象徴するもの;鮮やかな花を表現するため)などがありました。
柿右衛門と今右衛門を除き、有田焼に用いた赤絵の具は、当初は、オランダ東印度会社が長崎に輸入したインド産の「ベンガラ」(良質な酸化第二鉄)を原料にして中国人が造ったといわれます。その後、「ベンガラ」を備中高梁産のローハに代えて「弁柄」を造り独自の「赤色」を創りました。江戸末期、若杉窯において三田勇次郎は赤絵町の絵の具屋が造った「弁柄」を用いて若杉伊万里と呼ばれる色絵磁器を焼いたと考えられます。
仁清の用いた「赤色」
柿右衛門が色絵磁器を焼き始めてから間もなく、京焼の御室焼(おむろやき)で野々村仁清が初めて色絵陶器を焼きました。この色絵陶器は白釉が掛けられたやや卵殻色の下地(素地)に、赤、緑、青、金などで絵付されました。

仁清の色絵陶器の製法は、磁器と同じで、登り窯で焼いた下地(素地)に絵付してから、内窯(磁器でいう絵付窯または本窯)で700~800度で焼くという“二度焼き”でした。これには、焼成温度を下げて「赤色」を絵付して華やかな王朝趣味の意匠や狩野派の絵を基調とした絵画的意匠を陶器に表現したいという想いがあったといわれます。
仁清の用いた「赤色」顔料は「朱」であったといわれ、濃い「赤色」でした。仁清から直接に色絵技法を学んだ尾形乾山が著した“陶工必用”の中で、仁清が「上々辨柄丹土の事」と述べ「弁柄」がこの上もなく良いとしたようです。そうであっても、仁清は十分に己の想いを表現できなかったと考えられます。当時の「弁柄」は僅かな「丹土(にど 赤土)」から造ったもので、京都に住む中国人の“焼物師”が造ったので、高価になり、入手するのが容易でなかったとみられます。
画像の色絵磁器は、仁清の作品を好んだ金森宗和(宗和流祖)から加賀藩主前田利家に贈られたもので、色も形も洗練を極めた色絵磁器で、こうした色絵陶器が古九谷の色絵に影響を与えたと考えられます。
奥田潁川の呉須赤絵写し
仁清の色絵陶器が現れてから百数十年後、奥田潁川によって色絵磁器が京都清水五条坂周辺で初めて焼かれました。潁川は明末に中国民窯で焼かれた「赤色」を主調とする呉須赤絵(日本での呼称)に強い関心と再現の想いを抱いてその写しを焼きました。潁川の先祖が明末に亡命してきた明人の末裔であると伝えられ、自身は焼き物に全くの素人でしたが、先進的な磁器技術が集まった五条坂周辺であったからこそ、潁川は磁胎の最初の製作に挑戦し、良質な「吹屋弁柄」を手に入れることができたとみられます。こうして、「吹屋弁柄」ならではの鮮やかな「赤色」を用いて描かれた呉須赤絵写しは、白い磁胎の上で発色した「赤色」に惹かれた文人の中で人気を呼び、京風の“雅”だけでなく、自身の燃えるような陶芸への情熱を見事に表現したようにみえます。

潁川の色絵の技法は惜しげもなく、弟子の青木木米、仁阿弥道八(二代)、水越輿三兵衛(初代)らに伝えられ、各地の窯場に広められました。その一人 青木木米が呉須赤絵写しなどの色絵磁器の技法を春日山窯にもたらしました。また、斎田伊三郎が京都で水越輿三兵衛(よそべい)から陶芸の指導を受け、後年、京都の技術先進地の雰囲気も持ち帰り、佐野村で門人たちと共に“佐野赤絵”を築けたのは京都での経験が大きく影響したと考えられます。
水越輿三兵衛の「朱赤」
下の作品は水越輿三兵衛(よそべい)によるもので「白化粧の素地に朱赤で瓔珞文の赤く塗った丸紋と線描が鮮烈に描かれている」と解説さています。この“朱赤”とはやや黄をおびた「吹屋弁柄」の「赤色」と思われます。

後述(九谷細描を生んだ「吹屋弁柄」)するように、「吹屋弁柄」は“すり作業”にかける力と回数によって粒子を細かくすることによって「赤色」が明るいものからやや濃い「赤色」に変化することがすでに清水五条坂周辺では知られていたとみられます。この「朱赤」は同じ輿三兵衛の呉須赤絵風の鉢より明るい「赤色」に発色しています。おそらく、齊田伊三郎は輿三兵衛の窯で「吹屋弁柄」の発色法を修得して佐野村に戻ったと考えられます。
永楽保全・和全の赤地金襴手
永樂保全は陶器も磁器も手掛け、仁清写しの「赤色」を取り入れた作品も制作しました。保全以降、“秘伝の赤”が永楽家に伝わり、その「赤色」が濃厚でありながら、渋味や黒味がなく温和な光沢を放ち、わが国で陶磁器に用いられた「赤色」の中で最も優れた「赤色」の一つといわれます。

保全の跡を継いだ 永楽和全が加賀の九谷本窯に招かれ、京焼風の金襴手を焼いたとき、永楽家伝来の「赤色」を用いました。この「赤色」を用いた製品が加賀で高く評価され、浅井一毫らによって制作された“九谷赤絵”の基盤的な色相となりました。
参照;再興九谷 九谷本窯
再興九谷の赤
春日山窯の呉須赤絵写し
青木木米と本多貞吉が加賀藩に招かれ、金沢の春日山窯で制作した呉須赤絵写しは、白い素地の上に「弁柄」の鮮やかな「赤色」と濃い目の緑とを対比させながら、黄・青・黒などをところどころに取り入れた奥田潁川風の赤絵磁器です。これを最初にして、金沢の民山窯などで「赤色」を多用した細描画が生み出されました。

参照;再興九谷 春日山窯
若杉窯の加賀伊万里
若杉窯の作品に肥前有田で色絵を修得した三田勇次郎が製作した伊万里風の赤絵があり、加賀伊万里とか若杉伊万里と呼ばれました。
この「赤色」は“ペンキ赤”とも呼ばれ、「吹屋弁柄」のような鮮やかな「赤色」と異なる発色をしているところを見ると、有田産「弁柄」の「赤色」であったとみられます。斎田伊三郎は、京都での修業に出る前に、若杉窯で三田勇次郎のもとで着画法を学びましたが、勇次郎の影響より水越輿三兵衛のそれが大きかったとみられます。

参照;再興九谷 若杉窯
小野窯の赤絵磁器
小野窯は元若杉窯の陶工 藪六右衛門が開いた窯元です。窯元の職人は天保年間の初めに佐野村に戻っていた斉田伊三郎から素地や着画の指導を受けた一方で、客分の陶画工たちを主工として迎え入れて作品を制作しました。特に、庄七(九谷庄三の幼名)が制作した“姫九谷”は赤絵細描画の名品でした。また、この窯では多くの絵付職人が人物や文様を赤一色で描いた生活雑器を多く造りましたが、やがて、素地だけを造る窯になり閉ざされました。

参照;再興九谷 小野窯
民山窯の赤絵細描画
民山窯の開窯には、加賀藩士の武田秀平が創始者として、また製品企画者としても係わり、秀平自身の春日山窯の再興への想いと工芸品への洗練された美意識が反映しました。加えて、秀平を支えた陶画工たちが大きく活躍し、赤九谷に大きな影響を与えました。他の再興九谷の諸窯とはその生い立ちが異なる窯でした。
民山窯の赤絵細描画は後に九谷焼の一様式となる「八郎手」の先駆をなしたといわれます。淡い茶褐色を帯びた磁胎のため、その「赤色」が他の諸窯のそれに比べ、濁った「赤色」の“臙脂赤”に見える赤絵と、緑・黄・紫・紺青も加えた色絵、また金彩も施された赤絵金彩もあります(一度焼きのため光沢がなかった)。また、製品の種類は、前田藩江戸藩邸跡からも発見されたように、工芸品(香炉、花瓶、煎茶器など)から生活雑器(食器、酒器)までと多く広範囲に販売されたといわれます。

秀平は、姫路藩士であった頃から、美術工芸品を好み、能、和歌、書画などをたしなみ、京都に遊学していたとき、京焼の磁器を創製した五条坂周辺で当時の色絵磁器を目にしたと思われます。文化11年(1814)から加賀藩老 前田土佐守直方に仕えたのも多彩な才能が認められたためで、藩窯 春日山窯初期の製品も見ていたと思われます。春日山窯が民間に移ったあと、藩主前田斉廣に仕え始め、金沢城内の御細工所(武具や調度品などの工芸品を作り修理する工房)の細工方(役人)に就いたとき、藩窯の再建、磁器の工芸品の製作を想ったと考えられます。金山方(鉱山役)も兼ねたのも、九谷村の金山で磁鉱が発見されて古九谷の古窯が築かれたように、藩窯のための陶石の探索も担っていたと考えられます。
そして、民山窯を支えた陶画工には、明治にかけて活躍した赤絵細描画の陶画工やその子が大いに関わり、職長に越中屋平吉(青木木米から陶法を学ぶ)、陶画工に鍋屋吉兵衛(赤絵細描に長けていた その子 内海吉造は明治初期に金沢九谷で活躍した)、任田屋徳次(赤絵細描の技法で手腕を発揮した)らがいました。
参照;再興九谷 民山窯
木崎窯の赤絵細描
飯田屋八郎右衛門の赤絵細描画に先立つ数年前の天保2年(1831)、木崎卜什が現在の山代温泉新村(しむら)で絵付窯を築き、赤絵金彩の作品を制作しました。子の万亀も卜什によく似た八郎手風の赤絵細密画を描き、“九谷赤絵”を先駆するものと称されます。

卜什、万亀の二人が仁和寺御室御所に出仕していたころ、京焼では「赤色」を多用する磁器が奥田潁川の弟子の青木木米、二代 仁阿弥道八、初代 水越輿三兵衛らによって、また、金襴手が永楽保全によって制作され、二人とも京焼の雅趣溢れた「赤色」を主調とした色絵磁器に惹かれたと考えます。
宮本屋窯の九谷赤絵
宮本屋窯の絵付主工であった飯田屋八郎右衛門が創作した「八郎手」は明治期になって竹内吟秋、浅井一毫らが完成させた“九谷赤絵”の先駆を行くものでした。
八郎右衛門は大聖寺町で代々続いた染織業を営む父から染織技法を修得した職人で、31歳のとき、宮本屋窯の絵付の主工へ転じました。八郎右衛門の師が誰であったかは不明ですが、江戸末期に流行った加賀友禅の絵付技法(手描き友禅)を活かして陶画工に転じたとみられます。普通、染織の絵付作業は白い布の上に加賀五彩(臙脂色・草色・黄土色・古代紫・藍色)の染料で文様を手描きする技法で、磁器の絵付に似ていました。

「八郎手」の特色は方氏墨譜から得た中国風の人物・山水・楼閣・動物などをモチーフにした図案とその周囲を小紋で埋めた赤絵細描画でした。そして、八郎右衛門は血赤と呼ばれる「赤色」に発色するように、豆腐屋八兵衛の下で赤色釉薬(吹屋弁柄であったといわれる)の造り方を修得したと見られます。
参照;再興九谷 宮本屋窯
斎田伊三郎の佐野赤絵
佐野窯を開いた斉田伊三郎は、多くの門人たちに陶技全般を惜しげもなく教え、彼らが独立した後も、彼らと共に素地造りから絵付まで行う“赤絵の村”を築きました(第1章「赤絵の村誕生」参照)。「赤色」を多用した赤絵細密画は、前述の「八郎手」と異なる趣を見せ、白い余白をバランス良く置いて「吹屋弁柄」の「赤色」を使って線で描かれ、加えて、金彩の二度焼き技法によって金が鮮やかに発色し、京風の赤絵金彩の画風も加わりました。これらの画風は、江戸末期から明治大正にかけ、一世を風靡した赤絵細描画の一翼を担いました。多くの門人たちによって「佐野赤絵」として継承されて、現代に受け継いだ福島武山 氏は今も「吹屋弁柄」を用いて「佐野赤絵」を描き続けています。

参照;再興九谷 佐野窯
このように、色絵磁器が登場した江戸時代に、陶画工を志した加賀の若者たちは磁器先進地の京都で「吹屋弁柄」に出会ってその特色の一つ、鮮やかな「赤色」に惹かれ、盛り上がった線で図案や文様が描けること知ったと思われます。その後“九谷赤絵細描画”という究極の絵付様式が九谷焼に加わり、青九谷と赤九谷という双璧の九谷焼ができあがりました。次の章(九谷赤絵を生んだ「吹屋弁柄」)では「吹屋弁柄」が佐野赤絵や他の赤九谷で用いられているかを観てみます。
資料
図録「乾山と京のやきもの展」(NHKプロモーション刊)
石川県立美術館所蔵品デジタルファイル
