江沼地方の焼き物文化
江戸初期に江沼地方で焼かれた古九谷は、九谷五彩という九谷焼特有の釉薬とその絵画的意匠に特徴があり、その後に続いた九谷焼の原型となりました。長い空白の後、江戸末期に再興された能美、金沢地方の九谷焼は磁器でしたが、江沼地方では、漢詩、能楽、茶道、花道、書道、絵画などの諸道が町人の間でも広まる中、他の地方にない“焼き物文化“が生まれました。それは、この地方で焼かれた九谷焼が非日常的な空間に置かれた備品や鑑賞の対象であり、この地方の人々の間で独自の価値観を生み出したからです。
江沼地方の“焼き物を造る文化”

江戸時代後期に加賀地方で再興九谷の諸窯が現れた中、江沼地方では、大聖寺藩の豪商 四代 吉田屋伝右衛門(宝暦2年~文政 10 年1752~1827)が、九谷古窯で焼かれた焼き物(古九谷)を再興したいとの強い想いで、能美、京都、信楽などから技能ある陶工や陶画工を集めて古九谷風青手を再現させました。傳右衛門は大聖寺城下で代々、酒造り、金融、薬業などを営み、藩の経済を支えてきた豪商であり、片や、諸学に精通し、古九谷を思慕し続けてきた文化人でもあり、72歳のときから開いた吉田屋窯で焼いた青手「吉田屋」はこの地方のみならず、京都、大阪の文人の間まで「九谷焼」の名で名声が広がり高く評価されました。
しかしながら、吉田屋窯はわずか7年ほどで閉じられ、その窯を受け継いだ宮本屋宇右衛門(以下、宮本屋という)は、青手の製品を焼きながら、元吉田屋の番頭であり窯の支配方であったときに、吉田屋窯の焼き物造りと商いから得た知見を活かして、新しい製品を考えました。その結果、新しい製品の画風は「吉田屋」の上客であったこの地方の文化人が好むものであり、その図様は藩内に出回っていた、文化人が好むような画譜集(その一つが「方氏墨譜」でした)などから祖型を得ること、筆運び軽快さと緻密な繊細さが両立することなど、多くことを「吉田屋」から取り入れたと考えられます。次に、宮本屋がしたことは、江戸時代後期に盛んとなった細密な図様を絵付する技能ある陶画工を探すことでしたが、大聖寺城下の染織の職人(上絵付師)で、細描画の素養ある飯田屋八郎右衛門を宮本屋窯の絵付主任に迎い入れ、山代温泉の白銀屋市兵衛の所で陶画法と合わせて弁柄を原料とする赤色釉薬(弁柄)の調合法も学ばせました。市兵衛は、山代温泉の白銀屋という旅館の主人で、茶会の亭主や文化人らの会合の主人なども務めた趣味人であるともに、焼き物にも造詣が深かったと考えられます(詳細な経歴は不明 佐野赤絵の斎田伊三郎に赤絵の技法を教えたといわれる)。やがて「八郎手」の絵付手法が生み出され、この地方の焼き物文化の柱の一つ、青九谷に引き続き、赤九谷(後に“九谷赤絵”と呼ばれた)も重要な柱となりました。
江沼地方の“見る文化”

八郎手 水注
江戸初期に焼かれた古九谷は大正時代に知識人から“鑑賞陶器の典型”と提唱されました。彼らの研究対象となった主な陶磁器は、中国の唐三彩、磁州窯、明・清の官窯磁器などと、日本のものでは柿右衛門、色鍋島、古九谷などと、仁清、乾山などの京焼も重要な位置を占めました。これらの陶磁器は“焼き物を見る文化”の象徴としてその芸術性、特に、絵画的な側面が評価されました。古九谷は元々“大名道具”(江戸時代の大名家に伝わった絵画、武器や武具、調度品などの道具のこと)として数百年にわたり伝世され、研究者からその色絵磁器の高い芸術性が高く評価されました。
その古九谷を倣った倣った「吉田屋」の鉢、皿、水指などの器は茶道、懐石料理などの場面で用いられながらも、一部には鑑賞される器として京都などでも評判を呼びました。その理由は「吉田屋」も質の高い絵画的意匠であり、その高尚さに文化人から興味が引かれたからでした。「吉田屋」は江戸末期の色絵磁器の中でもその独創性が高く評価され、文化人たちの茶会や酒宴の場で手にして鑑賞されました。
こうした高尚な雰囲気を「吉田屋」から受け継いだ「八郎手」では、より漢画風の細描画が描かれたので、煎茶(*1)の文化を愛したこの地方の文化人や町人の集まりで鑑賞の道具となりました。大聖寺藩は、文化芸術の振興と合わせ、産業政策の一環としてお茶の栽培を命じ“チャの樹”が現在の加賀市打越町で植えられ茶の栽培が盛んとなり、煎茶を飲むことが近隣まで普及しました。抹茶と比べ、煎茶の淹れ方が型にはまらなかったことから、好きなときに藩士や町人がお茶を飲む習慣が生まれ、次第に茶の文化として藩内に定着していきました。こうして「八郎手」を始めとして“焼き物”が煎茶の道具(水注、菓子鉢、急須など)に、あるいは部屋の調度品として用いられました。
*1「煎茶」 初めは「茶を煎じる(煮る)」という作業の意味でしたが、茶葉の種類(形状)を示す名としても使われるようになり「茶の湯(抹茶)」と「煎茶(茶葉)」といった対照的な喫茶方法ができあがりました。両者では茶葉の形状と入れ方がそれぞれ異なり、「抹茶」は茶の粉末に湯を注ぎ、撹拌して湯茶の全てを飲むもので、それに対し「煎茶」は茶葉を急須(火にかけられる陶器)の中で湯にしたし抽出された茶液を飲むものです。
煎茶そのものは、江戸のはじめ、京都から加賀地方に伝わり、当初は武士の嗜好の一つでしたが、京都・大阪の文人たちの趣味(文人茶)へと変容していきました。江沼地方でも四代 吉田屋傳右衛門のような文化人、あるいは豆腐屋市兵衛のような趣味人が煎茶を嗜みました。煎茶を淹れ、それを飲みながら、簡易な作法の間に床の間の掛け軸、調度品として、あるいは煎茶道具として手にしながら「八郎手」などが鑑賞されました。特に「八郎手」に描かれた図様の多くは、日本の花鳥図や山水図というよりも「方氏墨譜」のような明代の墨譜から祖型を得たものであり、あるときは蘇東坡などの詩人の詠んだ情景を思い描いた漢画や図譜を祖型としました。このため「八郎手」に描かれた図様からは、高尚で文雅な趣が感じ取られ、煎茶の文化を愛でた文化人たちは「八郎手」に魅了されました。さらに、調度品や用具について知見を交わすという余興(遊び)に発展して、古代中国の漢画をモチーフにした「八郎手」は非日常的なところで鑑賞される“見る器”として適していたと考えます。
