「八郎手」に見る“線描”による絵付
宮本屋窯の陶画工 飯田屋八郎右衛門(以下、八郎という)は『方氏墨譜』(*1)から祖型を得て図案を“線描”(*2)で絵付する手法を生み出しました。この絵付手法は類例のない「八郎手」を特徴づけるもので、この手法が完成するまでの過程を考えてみます。
(*1)方氏墨譜 明時代末期に製墨師 方于魯によって製造された385種の墨について方氏が出版した版本である。墨ごとに名称、形、造型図案(墨に彫られた模様)などが墨で木版印刷されたものが6巻にまとめられている。その図案は古代中国の天文学的知識、伝説的な逸話、龍や鳳凰といった想像上の動物などが墨の線で版画に描かれ、文人、知識人の間でその版本を解読することによって素養が形成されると受け取られ、また鑑賞の対象物となってその精緻な図案が美術工芸品の祖型となった。
(*2)線描 線描は日本画において線を多用して描く画法をいい、その描線には無駄がない美しさが感じられ、丸味や質感までも表わしたといいわれた。古い中国絵画に用いられた鉄線描の線が研ぎ澄まされ固く均一であったのに対し、日本画の線描では簡素な線が用いられたので、画家が自由に表現力を発揮でき、画家の個性までが出ました。墨と毛筆の文化に根差した我が国ではこの線描が仏画や文人画にも影響を与えました。
【 陶画の修業と“べんがら”についての見聞 】
八郎は、初めに、山代温泉の老舗旅館『白銀屋』当主 豆腐屋市兵衛から陶画の技法を修得し、併せて、顔料として広まりつつあった“べんがら”に係わる知見を得ました。江沼地方では天保2年(1831)に吉田屋窯が閉ざされて以来、陶画の技法を教えられる陶画工がいなくなり、市兵衛が自宅に築いた絵付窯で焼いた陶磁器を嗜む知識人でしたので、八郎は市兵衛から陶画を教わりました。前例として、斎田伊三郎が佐野窯を開く前の文化11年(1815)から数年の間、陶画を市兵衛から修得したことがあり、市兵衛には陶画を教える技能が具わっていたようです。八郎も、おそらく数年にわたり、骨描き、釉薬の造り方、筆遣いなどを含めた、絵付から焼成までの陶画全般にわたる技能について教えを受けました。
この際、八郎は、市兵衛の代に建て替えられた『白銀屋』の壁や格子などに“べんがら”が塗られている様相を目の当たりにし、あわせて“べんがら”が釉薬に用いられていることを市兵衛から聞かされました。この頃の“べんがら”は備中の吹屋弁柄のもので、それが京都、大阪に出回ると、柿渋(未熟な渋柿から抽出したタンニンを多く含む液)を添加して場所や用途に応じて鮮やかな赤色を黒色に近い赤色にまで調色できる塗料として広まった一方、京焼の赤色釉薬として用いられました。陶磁器の赤色釉薬には、古くは京焼の野々村仁清や尾形乾山が用いた釉薬がありましたが、高価であったため、わずかしか用いられなかったものの、奥川潁川が豊富な備中吹屋産の“べんがら”を磁器の赤色釉薬に多用するようになり、さらに水越輿三兵衛や青木木米などの門人たちに伝授しました。この釉薬は青木木米が金沢の春日山窯で焼かれた呉須赤絵写しに用いたものと同じであったと考えられています。また市兵衛は“べんがら”の用いれ方について京都や金沢の常連客から聞き、民山焼、京焼などの赤色釉薬で絵付された磁器とその図案についても八郎に教えたと考えられます。八郎は、この時の修業から多くのことを学び、特に“べんがら”が磁器の釉薬に用いられていることを知ったことから“べんがら”に強く興味を覚えたと見られます。
【「吉田屋」から学んだ線描】
古九谷以来、江沼地方の陶画工は、陶画の師あるいは兄弟子から指導を受けていた時期にも、独り立ちした後も、画譜から祖型を得て図案を熟考する習慣が身に付き、それに多くの時間を費やしたといわれます。八郎にはそうした師も兄弟子もいなく、代わりに市兵衛に陶画に係わる技法を教わり、吉田屋窯の支配方であった窯主の宮本屋宇右衛門からは「吉田屋」が『八種画譜』『画巧潜覧』『絵本写宝袋』『方氏墨譜』などの画譜から祖型を得ていたこと、上絵呉須を用いた絵付手法が用いられていたことなどを聞いたと考えられます。

上の左の画像は、吉田屋窯の陶画工 鍋屋丈助(以下、丈助という)が制作した「牡丹花肖柏図平鉢」の見込み部分で、丈助は『画巧潜覧』の「牡丹花肖柏図」(右の画像)を祖型にして岸派の画家(*)から修得した日本画の画法に倣ってこの平鉢を制作しました。牛の姿形を際立たせるため、牛のがっしりとした体躯がやや太い輪郭線で描かれ、くっきりと周囲の余白から切り離され、逞しい牛を表現する一方で、細い線も用いて微細な体毛を加筆しています。これは上絵呉須で引かれた線であり、その上を黄色釉薬で塗り重ねて凹凸感を表現しています。こうすることによって祖型となった平坦な牛の図よりも力強い表現になっています。
(*)岸派の画家と丈助の画法 岸駒(がんく)は金沢出身の画家で、京都に出て沈南蘋(しんなんぴん)をはじめとする漢画や狩野派の画風を取り入れて独自の画風を確立し、京都画壇で岸派を形成した。写生に基づき力強い筆致の岸駒の画風は円山応挙などに影響を与えた。丈助の画法は岸派の画家に絵画を学んだところに基本があり、やはり陶画を描く前に対象物をよく観察し、微細で力強い写生画を描いてから、装飾的表現力でもって陶画を描いたといわれる。なお、沈南蘋は中国の画家で、長崎に2年間ほど滞在して絵画の技法を我が国に伝え大きな影響を与えた。
【宮本屋窯初期の作品に見られる線描】

八郎は陶画の修業や焼き物の知見を得たところで、宮本屋窯の初期の作品の制作に入ったと考えられます。その一つが上の左の画像の赤絵で、見込みの麒麟と外周の縁文様を“べんがら”で絵付し、青・緑色の山水図で背景を埋めました。ただ、麒麟図は画譜からそのまま模写したようで、後年の「八郎手」と比べ、麒麟図の絵付に丁寧さが見られず、逆に、丸抜きに文様をはめ込んだ丸文と蛸唐草文が綺麗に描かれ際立って見え、どこかバラバラな感じを受けます。さらに、「吉田屋」の麒麟図が吉祥を意味する瑞雲を伴う神獣(麒麟)として描かれているのに対し、この初期の作品では見込みの図案が熟考されずに寄せ集めたようで、違和感のある見込みです。
こうした初期の作品には、上の作品のほかに、黒い赤色や逆に赤色の薄い作品、表(おもて)面が“べんがら”の赤絵で、裏面が青手風の文様で塗り埋められた作品などがあり、吉田屋窯から宮本屋窯へ移行する時期に制作されたと考えられます。八郎は初期の作品造りに携わりながら研鑽を続け、『方氏墨譜』を知るに至って、それから主として祖型を得るとともに“べんがら”の扱い方も極め「八郎手」を生み出したと考えられます。
【方氏墨譜から学んだ独創的な絵付手法】
上述したように、初期作品には画譜から図案を模写してそのまま絵付したような傾向が見られますが、やがて(天保年間の中頃から)文人や趣味人の憧れであった中国の明時代の画譜(版本)から祖型を得て文様も含めて構想された作品の制作が始まりました。八郎が主に図案の祖型を得た『方氏墨譜』(以下『墨譜』という)で、それは細描画にとって最良の画譜でした。そこに載せられた造型図案が黒一色の墨の線で微細に表現されていたので、簡単に言えば『墨譜』の図案そのまま絵付すれば良く、当初はそうしたと見られます。『墨譜』の図案は版画の完成度が高くそこに八郎の独創力が加わり、次第に変容して図案化され、多くの作品が制作されました。

『墨譜』は、墨の線で描かれた385種の版画から構成され、左の画像のように、中国の明時代の名墨(品質の優れ非常に価値のある古墨 この墨自体は後世の倣製品)の表面に彫られた模様を右の画像のように、版木に図案化して彫り、木版印刷して版本に製本されたものでした。その造型図案は“線描”で描かれたと同じで、例えば、龍の全体像から細部の鱗や髭までが克明に印刷され、細い線と太い線を使い分け、あるいは線の密度を変えて、龍の姿形(輪郭)、背から脇腹の鱗、下腹の鱗を表現し、また曲線によってお腹の丸みを持たせるなど、巧みな線で描かれています。
八郎は『墨譜』から多くの図案を描き写しながら細描画を独習したとき、筆遣いを鍛錬するとともに“べんがら”の擦り方の”こつ”を感じ取ったようです。良い墨ほど筆がよく伸び、乾くと鮮明な図案になること、墨の粒子を細かく均一にすればするほど、線に繊細な線質が生まれること、そのために墨をよく擦ることなどを修得しました。この擦り方は“べんがら”と共通するところがあり“べんがら”も擦り方によって線質と色合いが変わることを会得して“血赤”を生み出すこととなりました。こうして見ると、初期の作品に見られた強い黒味を帯びた赤色、あるいは線描の筆致の型さ、粗さなど“べんがら”の擦り方がいまだ完成していなかったことがわかります。
【「八郎手」に見る“線描”による絵付手法の用いられ方】

上の画像は『方氏墨譜』から写し取りそれを祖型にして“線描”で絵付された「八郎手」の「龍九子図」の部分です。骨格を“べんがら”の太い線で表す一方で、線の幅をわずかに変えながら、頭、鱗、髭、手足とその爪などを鋭い線で表現し、また髭の先や体を覆う毛先には“かすれ”を加えました。腹やふくろはぎは曲線で間隔を少しあけて筋肉の盛り上がりを表現しています。この絵付作業は“べんがら”の色あいが変わらないうちに一気に描き終えたようです。
「八郎手」で使われた線には、太い・細い・長い・短い・鋭い・柔らかい・かすれ”など様々な線が含まれ、「九龍子」体躯のように、部位に応じて硬軟・丸味までを表現したことがうかがわれます。筆を替えずに線を一気に引いているところは見る者に軽妙な筆運びを感じさせ、短い線は一本毎に線幅をほんのわずか変え、あるいは間隔を少しずつ変えることで、濃淡も表現していたように見えます。さらに、興味ふかいことは、「べんがら」を用いた線描の手法で絵付された図様がややもすれば単調となるところを、青・黄の色釉、金彩を加えてコントラストのある見込みに変えバランスの良い構図にしています。

もう一つ作例を見て「吉田屋」の塗り埋め手と「八郎手」の描き埋め手の違いを見てみます。右の画像は宮本屋窯の「牛童子図」で、左の画像は丈助が制作した図で、いずれも『画巧潜覧』の「牡丹花肖柏図」から祖型を得て描いた図です。二つの画像を見比べると、「八郎手」の図では“線描”をほぼ全体に及ぼして筋肉の質感を出そうとし、筋肉の盛り上がりなどを無数の細く短い線の向きを所々変え、あるいは線を引かず素地の色で凹みを表わしたように見えます。これに対し「吉田屋」は部分的に上絵呉須で線を描いた上を黄色で上塗りするにとどまらずを得ず、牛の逞しさが「八郎手」ほど出ていないように見えます。

そして「八郎手」には、上の図案のように、華美にならない程度に金彩をうまくほとんどの作品に取り入れています。金泥で線を描き、あるいは文字(福・禄・寿など)を書いています。金彩が様々な要因によって、金色がくすんだり、剥がれたり、溶けたりすることがあったので、二度焼きされていました。赤色釉薬を除く色釉が1200℃前後の高温で、金彩は800℃前後で焼き付けられるため、金彩の施された色絵は二度焼きされ、多くの手間と時間が費やされました。このため“べんがら”の焼き付け温度が700~800℃前後で、金彩と似通った温度であったことから、八郎は金彩をよく施しました。金彩の焼成温度を経験的に突き止めたと見られ、一度焼で金彩を焼き付けたといわれます。ただ、宮本屋窯より早く赤地金彩や金襴手の制作を始めた近隣の木崎窯の木崎卜什(*)からこうした技法を修得した可能性も考えられますが、詳細は不明です。
(*)木崎卜什 京都などで修業したとき、すでに永楽家が金襴手などを制作していたことから、金彩の技法を加賀に持ち込んだのは卜什であったと考えられます。天保2年(1831)に山代新村の自宅内に木崎窯を開いて、主に赤絵金彩や金襴手の優品を制作した名工でしたので、後世“江沼赤絵の祖”と言われました。
以上述べてきたように、八郎によって生み出された“線描”による絵付手法は、明治時代に浅井一毫、竹内吟秋、さらに門人の中村秋塘らに伝授されましたが、彼らの“九谷赤絵”は、時代の要請(殖産政策)で日本画的な画風を取り入れ、華やかでいてより精緻になったため、美麗さや優雅さが高まったといわれます。それに引き換え、江戸末期はいまだ陶画工が独自色を出せる気風があったので「八郎手」においては墨と毛筆の文化に根差した“線描”の技法を磁器の絵付に巧みに転用した絵付手法が生み出されたと考えられます。
