「八郎手」の画風-『方氏墨譜』との係わり

宮本屋宇右衛門(以下、宮本屋という)は着物の上絵師であった飯田屋八郎右衛門(以下、八郎という)を陶画工の主工として迎え、新しい製品の画風造りに取り組みました。「吉田屋」が主題の図案を『八種画譜』(*1)に加え『画巧潜覧』(*2)『絵本写宝袋』(*3)などを参照し、花鳥、山水、人物などの図案を絵画的に描いてそれが“観る器”として高い評価を受けたのとは対照的に、宮本屋は新しい製品に文人趣味豊かな画風を出すことを考えつき、八郎がそれに応え、『方氏墨譜』(以下『墨譜』という)に載る古代中国の古墨の造型図案から祖型を得て「八郎手」の画風を創り出しました。

(*1)八種画譜

中国の明時代後期に出版された、八種類の画譜で構成され、そのうちの『五言唐詩画譜』に載った50首の唐詩とそこに挿入された絵を祖型に、古九谷、「吉田屋」に花鳥、山水、人物などが描かれています。

(*2)画巧潜覧 江戸中期の元文5年(1736)に刊行された狩野派絵師の大岡春卜が編纂した絵画の入門書。当時の絵師たちの多くは絵画の技術(筆法や花鳥山水・人物の描き方)をここから学びました。

(*3)絵本写宝袋 江戸時代の絵師橘守国(明和元年1679-寛延元年1748)が描いた故事、人物、鳥獣、花鳥風月などを絵と文字で解説した絵手本です。この画譜は絵師にとって細部の色の指示までが書かれた教材的な役割を果たしました。

『方氏墨譜』の概要

明墨(品質の優れ非常に価値のある古墨 この墨自体は後世の倣製品)を代表した二人の製墨匠、程君房と方于魯(二人は師と弟の関係)は、それぞれが造った鑑賞用の墨を図案化した造型図案(*4)を墨譜として出版しました。先に、方氏が万暦17年(1583)年に出版したのが『方氏墨譜』(全六巻、版画385種)であり、次に、程氏が万暦22年(1594)に出版したのが『程氏墨苑』(全十二巻、版画500種)でした。二人の鑑賞用の墨には、上左の画像のように、彫刻や蒔絵などの装飾が施され、その評判は我が国にも伝わって来て、戦国時代から江戸初期にかけ輸入され、二人の墨譜もまた輸入されました。墨と筆の文化であった我が国でも、優れた形や色艶のある明墨は書家、知識人、文人画家たちから愛玩されましたが、明が1644年(正保元年)に滅んだ後(清時代)、二人の造った墨と墨譜は倣製品にとって代わり輸入されました。墨の倣製品は品質において明墨に及ばなかったものの、二人の墨譜は、上右の画像のように、当時の知識人にとって文人趣味豊かであり風雅な図案として映りました。『方氏墨譜』は、次のように、絵画(文人画も含め)、京焼などの祖型となるなど、影響を与えました。

(*4)造型図案 一般には形(かたち)を作ることを意味し、点(水玉、円)・直線(縞、格子)・曲線(波形、らせん、渦巻き)・面(三角形、四角形、菱型)などの幾何学的な要素を組み立て形の図案にすることで、平面的な図案だけでなく、立体的な物を様々な角度から見た図案であることを考えに入れています。

『方氏墨譜』から祖型を得た工芸品

『方氏墨譜』(以下『墨譜』とする)については美術工芸品の造型図案として参照されました。ただ、その類例は多くはなかったようです。

徳川幕府で所蔵された墨譜 江戸時代中期は日本文人画の初期とされ、徳川幕府の八代将軍 吉宗(在位1716-1745年)は、宋・元・明時代の絵画などの模写と研究を奨励し、狩野派を画壇の主流にするとともに、中国絵画の様式も取り入れるように出身地の紀州藩の文人画家に薦めました。吉宗は大名家に秘蔵されていた中国画を借りてその写しを自らも行い、あるいは画工にも写させたほど熱心でした。幕府の御文庫に中国画と合わせて『程氏墨苑』『方氏墨譜』のほか『芥子園画伝』(*5)などが“貴重書”として収蔵させました。ただ、二つの墨譜を祖型にした作品が制作されたかは不明です。

(*5)芥子園画伝(かいしえんがでん) 中国清時代に刊行された彩色版画絵手本。古くからの歴代画論に始まり、筆や墨や紙の扱い方、色の付け方、そして山水、樹木、岩石、雲、滝、人物、畜獣、建築物、橋梁などの描き方が、著名な画家の作品を多色版画にして引用したので、絵画の教科書、詩画譜として流行した。日本にも輸入され、絵画の教科書、詩画譜として普及した。

徳川幕府で所蔵された墨譜 江戸時代中期は日本文人画の初期とされ、徳川幕府の八代将軍 吉宗(在位1716-1745年)は、宋・元・明時代の絵画などの模写と研究を奨励し、狩野派を画壇の主流にするとともに、中国絵画の様式も取り入れるように出身地の紀州藩の文人画家に薦めました。吉宗は諸大名が秘蔵していた中国画を借りてその写しを自らも行い、あるいは画工にも写させたほど熱心でした。幕府の御文庫に中国画と合わせて『程氏墨苑』『方氏墨譜』のほか『芥子園画伝』(*5)などが“貴重書”として収蔵されました。ただ、それらを参照して作品が制作されたかは詳細不明です。

(*5)芥子園画伝(かいしえんがでん) 中国清時代に刊行された彩色版画絵手本。古くからの歴代画論に始まり、筆や墨や紙の扱い方、色の付け方、そして山水、樹木、岩石、雲、滝、人物、畜獣、建築物、橋梁などの描き方が、著名な画家の作品を多色版画にして引用したので、絵画の教科書、詩画譜として流行しました。日本にも輸入され、絵画の教科書、詩画譜として普及した。

小川破笠の「九貢象図硯箱」

津軽藩主5代 信寿(在位1710-1731年)は、江戸の漆芸家 小川破笠をお抱え師に迎え“稀覯本”(*6)であった『方氏墨譜』を見る機会を破笠に与えて漆芸品を古墨風に仕上げさせました。破笠は、明時代の文物を真似て「萬暦」「享保年製」などの元号、制作年が書き入れた漆芸品を制作し、享保6年(1721)に制作された「九貢象図硯箱」の蓋の表面には、上右の画像のように、さまざまな装飾が施された一頭の象が見られます。その象図は『墨譜』の「九貢」図(上左の画像)を祖型にして漆芸をもって立体的に仕上げられています。

(*6)「稀覯書」(きこうしょ)とは、需要はあるものの世の中に出回っている部数がきわめて少なく、容易には見ることができない珍重すべき書物、古書などを意味します。

青木木米「染付名花十図友三段重箱」

江戸後期、京都や大阪の知識人や家柄町人などは中国の教養のある“文人”の生き方や思想に憧れ、書、詩文、煎茶などを嗜む中、その時期が日本の文人画の後期でもあったことから、彼らもまた文人画を嗜好しました。そんなとき中国から輸入された『方氏墨譜』『程氏墨苑』の倣製品も含めて諸々の画譜が京都などの知識人(文人)によって鑑賞され、また文人画家がそれを参照して書画を描きました。その一例が文人でもあり陶芸家の青木木米(1767-1833 金沢の春日山窯で呉須赤絵写しを制作しました)によって制作された「染付名花十友図三段重箱」(京都国立博物館蔵)です。それは、上左の画像のとおり『方氏墨譜』の「名花十友」図を祖型にしたものです。その重箱の蓋と四つ面にはやや黒ずんだ染付で描かれた十種類の名花(「名花十友」という)を図案にしています。10種の草花図とそれに対応して“清友”(ウメ)“韻友”(トビ)“艶友”(シャクヤク・牡丹)“名友”(カイドウ)“佳友”(キク)“禅友”(クチナシ)“倦友”(クチナシ)“雅友”(マツリ)“浄友”(ハス)“殊友”(チンチョウゲ)の文字が散らされていて、文人趣味・中国趣味豊かな作品であると評価されています。なお、『墨譜』の「名花十友」図は同じ『墨譜』の「名花十二友」図と合わせて「八郎手」においても草花図の祖型となりました。

吉田屋窯「象図平鉢」

江戸後期、文政7年(1824)に吉田屋窯を開いた、四代吉田屋傳右衛門は文人趣味の知識人でしたので『墨譜』を祖型にした図案を「吉田屋」に取り入れたと考えられています。ただ「吉田屋」の「象図平鉢」(上右の画像)と「象図四方鉢」の象図を見比べると、上左の画像のように『墨譜』の「九貢」図から大きく変容されている印象を受けます。

『方氏墨譜』から大きな影響を受けた「八郎手」の画風

江戸時代の後期に、日本の文人画家や知識人は中国の文人文化(書・画・詩・茶・香など)への憧れから、日本の煎茶道具、文房具、陶磁器などに文人趣味豊かな趣向を求めるようになり、やがて江沼地方にもそうした趣向が広がりました。そうした中、吉田屋窯主の吉田屋傳右衛門もまた文人趣味を嗜好した知識人の一人でしたので、一部を文人趣味豊かな「吉田屋」に仕上げた作品を自分の窯で焼かせました。その「吉田屋」は質の高い絵画的意匠を凝らし、その高尚さに強く惹かれた知識人によって鑑賞されたことから、その後を継いだ宮本屋窯もまた当時盛んになった煎茶の文化を愛する知識人や町人に向けた焼き物を制作しました。

江沼地方では、煎茶は、抹茶と比べ、その淹れ方が型にはまらない面があったことから、好きなときに大聖寺藩士や町人の間でも煎茶を飲む習慣が生まれるようになり、その道具やその場の備品は煎茶を飲みながら鑑賞される対象となり、特に、知識人は文人趣味豊かで、風邪な趣が感じられる“観る器”を求めたことから、宮本屋窯では『方氏墨譜』の図案から祖型を得てそれを精緻な線描によって描かれた「八郎手」を制作しました。こうして「八郎手」は知識人から“美しく洗練されている”と評判となり「八郎手」は“観る器”として高い評価を受けました。

その『墨譜』については貴重な書物だったと見られ、八郎はそれを偶然に見る機会を得て、墨と筆でもってその造型図案を全て写し取りました。八郎の写し取った図案は『墨譜』に載った図案と変わらない大きさで、精緻に写し取られました。『墨譜』の多種多様な図案(*7)は優れた彫刻師によって彫られた精巧な版下で印刷され、木版画として非常に高い芸術的、技術的価値がありました。八郎は単なる墨の造型図案として見なさず、写し取った図案を美術書のように制作の度に参照して、己の美意識を通して線描による図案に変容されました。八郎は『墨譜』の図案から美的な面と技術的な面を習得して「八郎手」という特異な画風を創り出しました。

このように『墨譜』全6巻に載った、合計して385種の造型図案の中から選んだものが変容されながらも「八郎手」の図案に多くが取り入れられたことから『墨譜』が「八郎手」の画風に大きな影響を与えたのは当然でした。主要な図案は、龍、鳳凰、麒麟などの古代中国の神獣、仙人や仙境などの俗界を離れた静かで清浄な理想境、中国の故事や天門思想から図案化されたもの、名花などです。

(*7)『方氏墨譜』の構成と「八郎手」に問い入れた件数

巻 名

内   容

図案の種類数

祖型の種類数
第一巻 国宝 国の宝物・比ゆ的に国家に特別に貢献した人物

73

12

第二巻 国華 国の花を意味し国の象徴とされる花

69

16

第三巻 博古 古い時代の事柄に精通する意味があり、古代の器物やそれを模した工芸品

78

11

第四巻 博物 一般的には博物館を意味し「博識の意味もある」

86

19

第五巻 法宝 仏教や道教の特別な宝物を指し、僧侶の持つ袈裟や錫杖、神通力を持つ宝物

57

第六巻 鴻宝 貴重な宝物を意味するだけでなく、歴史的な文献や文学作品

22

これに加えて「八郎手」には吉祥性ある図案も多く取り入れられています。それらの図案は他の陶画工によっても取り入れたと考えられます。そうした吉祥性ある図案もまた中国に由来するものが多く、江戸末期に拡がった、天空や星座を自分たちの生活に結び付けた考え方や行動(暦や星占い、縁起を担ぐ行為)を図案化したものでした。ほかに運気向上や不老長寿を意味する図案、俗世を離れた隠遁生活の人物(赤壁賦図)や七賢人、七福神、十二支などの図案もあり、伝説的な逸話など知的な面から図案化したものがありました。他にも、統治の理想的な姿を映したといわれ、為政者の間で流行ったとされる農耕図、文様化された、吉祥を意味する文字もあり、これらもまた「八郎手」の画風に合わせるように精緻に描かれました。

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