宮本屋窯の窯主、陶工、陶画工

再興九谷には、春日山窯の呉須赤絵写しや若杉窯の加賀伊万里(伊万里風の色絵磁器)のように、赤色釉薬で絵付された九谷焼がありましたが、本格的な赤九谷は民山窯で始まったといわれ、小野窯、木崎窯へと続き、宮本屋窯に至りました。宮本屋窯は、宮本屋宇右衛門(以下、宮本屋という)が窯主として、飯田屋八郎右衛門(以下、八郎という)が陶画工の主工に、そして木越八兵衛(以下、八兵衛という)が陶工の主工となり、この3人が中心となって「八郎手」を完成させました

窯元 宮本屋宇右衛門

宮本屋は、青手を焼いて一世を風靡した吉田屋窯を引き継いで、天保2年(1831)後半から翌年の早々にかけて宮本屋窯を開きました。宮本屋は開窯の直前まで四代 吉田屋伝右衛門が文政10年(1827)に亡くなってから不振に陥っていた吉田屋窯を立て直すことに全力で尽くしました。それができたのも、宮本屋が大聖寺の豪商 吉田屋に奉公にあがってから働き続けて吉田屋の番頭に、さらに窯の支配方になって吉田屋の全てを知り尽くしていたからでした。ただ、吉田屋窯が天保2(1831)年5月に“焼き止め”(窯の廃業)をせざるを得なくなり、宮本屋は、吉田屋窯で働いた数人の職人と合わせて、窯、それに付随する窯道具、素地、成形型、原材料などを引き取り、1年も経たないうちに宮本屋窯の操業を始めたことを見ると、宮本屋は経営能力のある窯主であったと考えられます。

宮本屋は、当初、吉田屋窯の画風を受け継いだかのような青手風製品を造りながら、新しい製品の構想に取りかかりました。宮本屋は吉田屋窯の支配方に就いていたので、江沼地方で「吉田屋」が“観る器”として愛玩され始めていたことを、また京焼の奥田潁川が始めた”呉須赤絵写し”から影響を受けた、金沢の春日山窯と民山焼、そして、開かれたばかりの木崎窯などに見られた再興九谷の傾向を捉えていました。やがて、新しい製品は知識人などから求められるような、文人趣味豊かな画風の出た製品であるといった構想に至ったと考えられます。

加えて、宮本屋は新しい製品造りに係わる職人の人選に取りかかりました。宮本屋は、吉田屋窯の支配方であったとき、以下の表(『吉田屋文書』に載った吉田屋窯の職人の構成を示すもの)とおり、陶工、陶画工、職人を各地から呼び寄せ、作業を細かに分担させていたことによる賃金が大きな負担となっていたことを把握していて、先ず、主工となる陶画工と陶工を雇い入れることから始めました。

支配方 園村善兵衛(加賀小松)
石方轆轤 本多清兵衛(江州神崎郡瓦屋寺村)虎吉と恒吉(京若宮八幡社前)助次郎(加賀能見郡浅井村)
土方轆轤 溝 忠兵衛(江州甲賀郡小川出村)小川定市(江州甲賀郡長野村)
釜方 作次と半三郎(加賀能見郡)
石土製し方 喜兵衛(加賀能見郡不動寺村)庄助(加賀小松)
土踏方 長嶋屋甚七(加賀小松中丁)
錦釜 粟生屋源右衛門(加賀小松材木町)
絵(陶画工) 鍋屋丈助(加賀小松河岸端)越中屋幸助(加賀金沢上田町)
日雇方榾割* 甚助(加賀大聖寺越前町)左屋半七(加賀大聖寺越前町)
形物 丈助娘弐人(加賀小松河岸端)
勝手方 宗助(加賀小松)

*榾割 ほたわり 木質燃料の一種である。長細く割り、扱いやすい長さへ切断し、乾燥させて燃料とした。

陶画工 飯田屋八郎右衛門

八郎の生い立ちと素養

八郎の生家は「飯田屋」という屋号を持ち、江沼の地で200年以上にわたり染織と上絵付を生業としてきた旧家でした。享和元年(1801)に生まれ、父の八郎右衛門(代々その名を継承してきた)から染織と上絵付の技を修得して上絵師となりました。当時、染織の旧家には、武士の裃(かみしも)から発展した伝統的な小紋の紙型や、七宝、麻の葉、亀甲、青海波などの縞柄の幾通りの手本が残されていたといわれ、これらの伝統的な小紋は古九谷に始まり「吉田屋」などの地文様として取り入れられました。また、一般的に、手描きによる上絵付は一人の職人が線画で模様を一つ一つ丁寧に手描きされたので、上絵付の技量に応じて線描には繊細さなどが表れたといわれます。宮本屋は、八郎が陶画工に適したこうした素養が備わっていると見込んで、一軒を置いたところに住んでいた八郎を雇い入れました

陶画工となるための修業

当時、大聖寺藩内には狩野派の絵師などが多くいましたが、宮本屋は上絵師の八郎を宮本屋窯の陶画工として迎い入れました。このとき、八郎はすでに31歳でしたが、陶画法を修得することから始め、豆腐屋市兵衛のところで修業しました。当時、江沼地方で陶画法を教えることができる者が殆どいなかったものの、市兵衛から陶画法、釉薬の調合などを修得し、しかも、市兵衛が焼き物に造詣の深い趣味人でしたので、八郎はどのような焼き物が嗜好されているのかを市兵衛から教えてもらいました。また、木崎卜什が山代温泉の新村(にむら)の自宅に、天保2年(1831)、すでに開かれていたので、八郎は、木崎卜什による赤絵細描の作品を見る機会を得て「八郎手」独特の金彩の絵付技法を取り入れたと考えられます。(木崎卜什は後に”江沼赤絵の祖”と言われるほどの名工となりました)

『方氏墨譜』から得たもの

八郎は、着物の型紙や流行りの図柄から祖型を得て図案化する方法を選ばずに『方氏墨譜』(以下『墨譜』という)の載った造型図案から祖型を得ました。それは、文人趣味豊かな図案を精緻な線描で絵付する「八郎手」の画風を出すためでした。それに加えて、窓枠や幾何学的文様も同じように線描し全面を描き埋める「八郎手」の画法も考え出しました。『墨譜』の造型図案は八郎の美意識を通して文人趣味豊かな画風に変容され、そうした画風に相応しい落ち着いた色合いを出すために“血赤”に変える技法も考え出しました。その技法もまた『墨譜』から線描によって写し取るとき得た経験から生まれたと考えられます。

陶工 木越八兵衛

八兵衛は宮本屋窯の開窯に合わせて陶工に就きました。文政八年(1825)に若杉窯において本多清兵衛(再興九谷の名工といわれた本多貞吉の養子で吉田屋窯の陶工でした)と共に花瓶を制作していることから、八兵衛は若杉窯から宮本屋窯に移り「八郎手」に適した素地を焼きました。その後、八兵衛は江沼九谷の名工の一人といわれるようになりました。

宮本屋窯初期の素地造り

八兵衛は、宮本屋窯へ移る前に、吉田屋窯から去る本多清兵衛からその窯で焼かれた素地の品質を聞いていました。八兵衛と清兵衛の二人が若杉窯の陶工(*)において本多貞吉の兄弟弟子であった間柄でしたので、八兵衛は、清兵衛から吉田屋窯固有の窯についていろいろ聞きました。後年に見つかった記録から、吉田屋窯が九谷村から山代に移った後、清兵衛が松山村の白土を使って素地を改良したことを八兵衛に伝えていたことがわかっています。八兵衛が宮本屋窯に移ったとき、清兵衛から引き継いだ方法に沿って、吉田屋窯が焼き止めする直前と同じ品質の素地を焼き、宮本屋窯初期の青手風の製品造りに尽くしました。

*若杉窯の陶工 若杉窯は顕著な絵付技法を誕生させたわけではないものの、この窯から陶工や陶画工が多く輩出されました。このことは本多貞吉の偉業とされ、貞吉の指導した陶工や陶画工は独立してから諸窯の名工となりました。(粟生屋源右衛門、鍋屋丈助、九谷庄三、斉田道開など)

「八郎手」のための素地

八兵衛は清兵衛の教えに従い「八郎手」の素地のために山代白土山の精選された白土を加えるなどして、素地を改良しました。その素地について『定本九谷』(松本佐太郎(*) 初版昭和15年発刊)の中で「素地が白色であってもやや青みを帯びた色合いで、地肌の綺麗な素地が細描図に適していた」と評価しました。宮本屋窯が「能美郡の諸窯のように多量生産をモットーとしなかったために素地の品質も善良で立派な磁器も出来たために一層絵付も引き立った」と高く評価され、八兵衛以降、陶工の技巧をもって素地も製品も評価されようになりました。

*松本佐太郎 明治11年(1878年)、小松の松本佐平(九谷焼の名工 父は松屋菊三郎)の長男として生まれた。丁稚奉公へ出ましたが、ベルツ万国語学校の通信教育を受け、英・独・仏・伊語を4年間学びました。明治36年(1903年)父、佐平の松雪堂が倒産し、父の親しくしていた同業の谷口吉次郎の経営する谷口商店に親子とも勤めました。明治40年(1907年)、ロンドン開催の日英博覧会誘致に関し、アイルランド、スコットランドの開催者の相談役となるほど、知見のある日本人として海外から高い評価を受けました。父の跡を継ぐことなく(後継者は初代 徳田八十吉)、九谷焼、特に古九谷の研究とその著書に注力しました。

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