「八郎手」のために創られた“血赤”と素地

「八郎手」には赤色釉薬の“血赤”とそれに適した素地を造った、隠れた、巧みな“技”が見られます。それらは加賀江沼地方の“焼き物文化”に相容れられた「八郎手」のために生み出され「九谷赤絵」の評価を高めることになりました。

「八郎手」に適した“血赤”

九谷焼のある著名な作家は“べんがら”の線描について「細かくても濃く盛り上がった、指先でも感じることができるような線」が理想としながらも、そのためにはかなりの鍛錬が求められると述べられています。このことから「八郎手」の精緻な線描で絵付するために“べんがら”がなくてはならない釉薬であったことがわかります。飯田屋八郎右衛門(以下、八郎という)は“べんがら”には混ぜる物によって本来の“鮮やかな赤色”を変えられる性質があることを突きとめ「八郎手」に相応しい“血赤”を用いました。(参照;九谷赤絵を生んだ「吹屋弁柄」

“血赤”が生まれた背景

八郎は、新しい製品のために“べんがら”を用いる着想を豆腐屋市兵衛のところでえました。市兵衛から“べんがら”が九谷焼において初めて金沢の春日山窯で呉須赤絵の絵付に用いられ、その後を追って民山焼でも用いられたことを教えられました。数年後、八郎は『方氏墨譜』から祖型を得て図案を線描するに適した赤色を探し“血赤”を生み出しました。“べんがら”本来の鮮やかな色合いから“落ち着いた色合い”に変容させて「八郎手」の画風に合わせた“血赤”を生み出し、様々な線や点を滑らかな筆致で精緻に線描する技法を極めました。

八郎が“血赤”の技法のとっかかりを得たのは、線描の技法を教える絵師がいなく『方氏墨譜』から図案を墨と筆で写し取ったときでした。良質な墨ほど筆がよく伸び、乾くと鮮明な線になることを自分の目で確かめ、また墨の粒子を細かく擦れば、墨の線が緻密な線質になることを体得し線描の技法に結び付けました。「八郎手」の“血赤”は、明るい所で見るより薄明りの中で見ると、その雰囲気に溶け込むような、落ち着いた赤色に見えます。部屋(茶室)に差し込む自然光や蠟燭の灯りだけの部屋の中にあってもその空間に馴染む色合いで、観る者からも受け入れられた赤色でした。当時、磁器用の“べんがら”は高い等級のものが用いられたといえ、品質がいつも同じでなく、発色した時の色合いも一様でなかったため、粉状の“べんがら”を液状にするために何かを混ぜて色合いに変化を付けていました。普通は、湯水を混ぜたといわれますが、宮本屋窯では、八郎の身の回りにあった棒茶湯(わずかにタンニンが含まれる)を混ぜて“べんがら”を丹念に擦り”血赤”を得ました。この方法は、八郎が市兵衛のところで“べんがら”に柿渋(タンニンが含まれる)を混ぜて黒っぽい赤に変えたことを知っていたので、そのことを参考にして考え出されました。こうして、八郎は、赤色釉薬の造り方を試すうちに“血赤”を造る技を得るに至り「八郎手」の赤色釉薬を生み出しました。

九谷焼の赤色

上の画像からわかるように、春日山窯の呉須赤絵では赤色が濃厚で沈んで見え、同じく、民山窯の赤色も窯主 武田民山が春日山窯を再興することが本望であったので、素地の色相も影響して濁った色合い(臙脂赤といわれる)に見えます。若杉窯の赤色は“ペンキ赤”と称されるように強烈な感じを受け、小野窯の赤色は姫九谷といわれるほど鮮やかに見えます。このような諸窯の赤色に比べると“血赤”は、落ち着いた、深みのある赤色であることがわかります。時を同じくした“庄三風”の赤色は、江沼と能美の二つの郡にあって九谷焼の最たる赤色と評されました。ただ、同じ赤色でも、庄三の赤色は上品さや洗練さにやや欠けるといわれるとおりで“血赤”とは異なる印象を受けます。この“血赤”は、明治時代以降、江沼地方の伝統的な“九谷五彩”と共に江沼九谷の伝統色の一つに加わりました。明治九谷の名工と謳われた、竹内吟秋、浅井一毫など“九谷赤絵”の継承者たちによって“血赤”は陶画工独自の”血赤”に変容され、江沼九谷独特の品格のある赤色は受け継がれていきました。

“血赤”と補色・金彩

「八郎手」には、九谷五彩の中にあって“血赤”と補色(反対側に位置する色)の関係にある、緑・青・紫などを少しだけ取り入れた作品が目立ちます。本来、「八郎手」が対立する色を敢えて取り入れたのは、補色関係にある色を要所に取り入れることで“血赤”の色あいを引き立てる効果があったからと考えます。作品によっては、同時に黄を加え、赤色と反する緑を馴染ませ、補色性を和らげさせる効果があり、ときには“血赤”の色合いをさらに落ち着かせ、緑をも引き立てさせ効果があります。そして、偶然とも思われる、緑や青などに不上がり(磁器では本来の発色をしていないこと)が見られる作品もあり、それがかえって“血赤”の色合いを引き立てる効果が出ています。

「八郎手」に“血赤”だけで絵付されている作品が思ったほど多く、上記のような効果を狙ったと考えられ、同じように、金彩が施された作品も多くあります。「八郎手」によく見られる金彩は“血赤”で緻密に描かれた線の上に金彩を重ねて描かれ、単にある部分を金泥で塗り埋めている金襴手風の金彩とは違い、圧倒させるような感じはなく、これもまた、落ち着いた“血赤”を引き立ているような印象を受けます。

「八郎手」の素地

“血赤”による線描は“べんがら”の持つ高い隠ぺい力によって素地の色から影響をほとんど受けてないように見えます。陶工の主任であった木越八兵衛(以下、八兵衛という)は、新しい製品の素地のために山代白土山から掘り出した白土を精選してそれを加えて「八郎手」に適した素地を造りました。それは「吉田屋」の素地を改良して造られました。「八郎手」の素地がどのような品質であったかについて、松本佐太郎(*)は『定本九谷』(初版昭和15年発刊)の中で、宮本屋窯の素地について次のように述べています。「素地が白色であってもやや青みを帯びた色合いで、地肌の綺麗な素地が細描図に適していた」「八郎手の妙味はその堅緻(註;堅くてきめ細かい)に精鋭された敦厚(とうこう 造った人の真心のこもっているという意味)の素地を愛する。(中略)あの黒ずんで落着きがあり、しかも規矩の正しい(註;規準とするもの、手本などの意味)素地だけはなかなか真似られぬ。素地工 木越八兵衛こそたしかに近世の隠れたる名工なり」と。

さらに、松本佐太郎は、宮本屋窯が「能美郡の諸窯のように多量生産をモットーとしないために素地の品質も善良で立派な磁器も出来たために一層絵付も引き立った」と述べ、八兵衛の技量を高く評しています。再興九谷の素地を評価するとき、どこの陶石や陶土を使ったかが重視して評価されましたが、吉田屋窯や宮本屋窯の頃から、陶工の技巧をもって素地も製品も評価される契機となりました。このことは、八兵衛が焼いた素地の品質が絵付に大いに影響を受けたことを示し、それ以降、江沼九谷では、本窯で焼いた素地に絵付し絵付窯(錦窯)で焼く窯元が現れ、素地の良し悪しをもって窯の製品が評価されるようになりました。

(*)松本佐太郎 明治11年(1878年)、小松の松本佐平(九谷焼の名工 父は松屋菊三郎)の長男として生まれた。丁稚奉公へ出ましたが、その後、大学、ベルツ万国語学校の通信教育を受け、英・独・仏・伊語を4年間学びました。明治36年(1903年)父、佐平の松雪堂が倒産し、父の親しくしていた同業の谷口吉次郎の経営する谷口商店に親子とも勤めました。明治40年(1907年)、ロンドン開催の日英博覧会誘致に関し、アイルランド、スコットランドの開催者の相談役となるほど、知見のある日本人として海外から高い評価を受けました。父の跡を継ぐことなく(後継者は初代 徳田八十吉)、九谷焼、特に古九谷の研究とその著書に注力しました。

 

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