佐野赤絵 その1 赤絵の村 誕生

今も“佐野赤絵”と呼ばれる九谷焼が誕生した地は江戸末期に能美郡寺井村の一集落であった佐野の集落(現、石川県能美市佐野町)でした。明治時代に入ると、九谷焼といえば赤九谷といわれたほど、特に赤絵細描の九谷焼が高く評価されましたが、その一翼を担ったのが“佐野赤絵”でした。それが焼かれた“赤絵の村”が形作られた道を開いたのが斉田伊三郎(晩年、道開と号す)であり、伊三郎の跡を受け継いで“赤絵の村”を築き上げたのが伊三郎の門人たちと窯元(素地窯の主)たちでした。

佐野の集落(以下、佐野と略す)は、金沢までは約20㎞、寺井村の中心部へは北西に約2㎞、小野窯へは南西に約1.8㎞、さらに2㎞ほど行けば若杉窯がある地でした。近隣に二つの再興九谷の窯元があり、寺井に九谷庄三の開いた絵付工房から直ぐ近くの佐野で、斉田伊三郎によって創り出された“道開風”の赤絵が門人たちによって磨き、九谷焼全体に大きな影響を及ぼしたので、いつしか佐野を“赤絵の村”と呼ぶようになりました。

斉田伊三郎は寛政8年(1794)に佐野の農家に生まれ、16歳のとき、若杉窯で本多貞吉や三田勇次郎から薫陶を受け、さらに、有田焼や京焼の先進的な磁器生産地で陶芸を修得しました。天保元年(1830)、36歳のときに佐野に戻ってからしばらくの間は、若杉窯や小野窯の間を通い、修得した技術をもってこの二つの窯元で陶芸を指導しました。その後、天保6年(1835)に佐野の自宅に絵付工房と上絵窯を開き、独自の画風と絵付技法を開発しました。合わせて、松屋菊三郎(蓮台寺窯や松山窯を築いた)、牧屋助次郎(詳細不明)、高堂の磯吉(後の小坂磯右衛門)、大長野の文吉(後の東文吉)などのほか、工房に教えを乞うてやってきた若者たちに惜しげもなく陶画の技法を教えました。

集まった若者たち、やがて独立して陶画工となりましたが、佐野の若者たちの中から“伊三郎の直弟子”と呼ばれた門人たちが育ち、早くて4,5年後、長くて8年から10年後に陶画工として佐野で独立しました。明治元年に伊三郎が亡くなる前に佐野で独立したのが、二代 斎田伊三郎、米田宋左衛門、多賀太三右衛門(弘化3年に独立に)、亀田平次郎(後の山月、文久2年に)、西本源平(慶應元年に)、富田平次郎(後の松鶴、慶應3年に)、今川間右衛門、三川徳平らであり、近隣で独立したのが高堂の小坂磯右衛門、大長野の東文吉でした。そして、伊三郎が亡くなった後に独立したのが、橋田与三郎(初代の与三郎、明治元年に)、道本七郎右衛門(明治3年に)、田辺徳右衛門、齊田忠蔵(実弟の子)らでした。初代 与三郎が伊三郎の亡くなった明治元年に他の門人たちより遅く独立したことには興味深いところがあります。

下図「明治五年居住地明細図」は明治5年の神社記録に記載された佐野の住居145戸の位置を示したものです。その記録には、農業の住居71戸のほか、窯元の住居5戸、陶画工の住居22戸、兼業の陶画工の住居2戸などがあったと書かれていす。さらに「佐野町史」には、145戸の住民名(二代・三代目も)が書かれ、齊田伊三郎(初代・二代)の住居、“伊三郎の直弟子”の住居のほか、橋田与三郎(初代)の門人 西野仁太郎、三輪鶴松らの住居や、亀田平次郎の門人 亀田惣松、玉川清右衛門らの住居もあり、また伊三郎の指導で素地窯を築いた窯元たち(後述)の住居、明治20年以降に事業を開始した陶器商人たちの住居(石崎、増田、沢田、坂ノ下、東、山近などの家)も表示されています。そこで、それらの住居を明細図に色分けして表示してみると、文字通り、佐野の“赤絵の村”の姿が見えてきます。

上の明細図を見ると、斉田伊三郎の住居の周りには門人たちの住居があり、師弟が近隣に集まって暮らしていたことがわかります。門人たちは師から教えられた技術で絵付をおこない、己の技量を高めていったことが想像できます。師弟同士が近くで住んでいたことは“道開風”の様式を修得するために自分の上絵窯を持てなかった門人たちにとってよかったと考えられます。こうして、門人たちは師の伊三郎の住まいから近くて良い環境の中で養成されたと思います。

こうして、伊三郎によって生み出されて、門人たちによって磨き上げられた“佐野赤絵”は精緻で独特なものであったので、周辺の多くの陶画工たちの間で高く評価され、自然と彼らの画風に影響を及ぼしました。それだけに、明治元年に齊田伊三郎が没した後、橋田与三郎(初代)は、明治8年(1875)、“道開風”の絵付技法の維持とさらなる発展のために、亀田平次郎らと協力して「画工十五日会」を結成しました。その会は延々と継承され、昭和27年(1952)に絵付協同組合に吸収されるまで80年近くにわたり続き、“佐野赤絵”が今に伝わることとなりました。

もう一つ、斉田伊三郎が佐野に遺したのが素地窯でした。伊三郎は、本多貞吉から陶芸の基本を学んだ後も有田や京の窯元で陶芸を修業した経験から、佐野赤絵のために素地窯を佐野に築くことを考えていたと考えられます。伊三郎は、絵付工房で若杉窯、小野窯、松山窯(江沼郡)などの素地を使いながらも、“佐野赤絵”に適した素地を模索していたと思われ、そうこうするうちに、佐野の与四兵衛山で磁石(佐野石)を発見したのを機に、伊三郎は集落に住んでいた中川源左衛門に素地窯を築くことを勧め、ついに、安政5年(1858)に素地窯を完成させました。その後、中川源左衛門の窯に続き、三川庄助、深田仁太郎も築いたので、佐野村には素地造りから絵付までの一貫した生産体制が整いました。

それらの窯元では、佐野石、花坂石、鍋谷石を運んできて、佐野用水の窯元共同水車小屋または八丁川の白崎家の水車小屋で粉砕しました。それぞれの砕石を坏土工場で坏土に加工し、用途や陶画工の要望に合わせてそれらの坏土の割合を変えて調合し、その坏土を使ってロクロ師たちが成形しました。成形された素地は素焼きされ、その上に釉薬をかけて素地窯(本窯)で焼成され、その素地が陶画工に渡りました。

この素地造りにおいても、窯元と陶画工の住居が同じ集落の中にあったことから、陶工と陶画工が協力しながらもそれぞれの本領を発揮する環境が醸成されました。陶工と陶画工は話し合って絵の具と相性の良い釉薬を調合し、剥離が起らない、滑らかで緻密な素地を造ることで協力し合いました。この共同体制は、明治元年に斎田伊三郎が、明治24年に中川源左衛門が亡くなった後も維持され、中村弥左衛門、南仁三郎、橋田庄三郎、高橋仁八、中村文太郎、宮本俊孝、三川庄助(二代)のいわゆる“窯元七軒”の登り窯が“茶碗山”の斜面に並んだといわれます。ここに佐野に構築された生産体制から“赤絵の村”全体を“佐野窯”と呼ぶようになったと考えられます。

上述した窯元の一部の住居も明細図に青で示していますが、それらの住居が明細図の右隅の集落外れに固まっているのがわかります。素地窯は“茶碗山”の斜面を利用し、黒煙や防災のため一般の住居から離して築かれ、また広い敷地も必要であったことから集落の外れに集まったと見られます。ただ、佐野で最初の窯元となった中川源左衛門の住居が齊田伊三郎の住居の近くにあったのは中川源左衛門が伊三郎から築窯、坏土造り、釉薬について技術的指導を度々受けるためであったと考えられます。こうして、素地窯全体の技術が確立された後、“窯元七軒”は素地窯の立地に適した茶碗山の斜面に築かれたと考えます。

佐野は古くからの集落であったので、いろいろな職業を生業とする家があったといわれますが、江戸末期から“佐野赤絵”の製造に係わる職人などの住居が増えていき、佐野が文字通り“赤絵の村”に形成されたと考えられます。ただ、佐野の“赤絵の村”ができた経緯が有田焼の“赤絵町”とは異なるように思われます。江戸時代に有田焼では柿右衛門の色絵そのものを“赤絵”と呼んだので、有田の中で絵付を集中的に流れ作業で行った区域を“赤絵町”と呼び、素地は町の外から運び込まれ、絵付だけを行いました。柿右衛門のような窯元は有田では数軒しかなく、その陶技は門外不出でした。また、鍋島藩は絵付の技術が外部に漏れることを怖れ、絵付の職人には図案の一部分しか絵付させないようにしました。こうして、大勢の職人たちは赤絵町に閉じ込めて流れ作業の一部を担当したので、職人たちの絵付の技能が上がることはなかったといわれます。

これまで述べたように、斉田伊三郎は佐野の内外から集まった多くの門人たちに先進的な陶技を教え、自ら“佐野赤絵”を創り出し、自由に絵付を伝える風土を醸成しました。現在、“佐野赤絵”の第一人者 福島武山氏は佐野町で工房を開き、門人たちの育成を励んでおられ、能美市制作のホームページで、齊田道開と“赤絵の村”への思慕を熱く述べられていますので、特に印象的な部分をここに引用させてもらいます。

『佐野は、赤絵が始まって200年足らずですけど、道開さんが若いときに自分の足で有田とか瀬戸とか、そういう所まで行って陶技を極め、この地で窯を開いて、そして赤絵を描き出したんですね。昔、佐野の村は赤絵の村っていわれたんです』

『私が佐野町に来た頃には数人が細々と赤絵付をしているだけでした。その当時、しばらくすると高度経済成長の波がきて筆を持って絵付けをするなんて、そういうたるい(=ゆるい)ことをしていても売上げが伸びないということで多くの人が筆を離してしまいスタンプとか転写に移ったんですけど、そこを私は手描きでやっていくと決めていたんです』

『以前のようにたくさんの職人さんはもう望めないと思いますが、産地能美市としていいものを作る人が育てば、人が人を呼んでいくと思います。(省略)その人たちはみなさん絵を描いていますから希望があります。能美市佐野町というのは、九谷焼ではほんとに大きな名前なんです』

この章に引き続き、何故に「赤色」多用した磁器が加賀で造られたかを探る前に、その2「日本人にとっての「赤色」」では「赤色」がどんな意味や想いをもって生活の中で器物や神社仏閣が赤く塗られ、さらに、その3「「赤色」の際立った色絵陶磁器」では佐野赤絵を含む、「赤色」が多用された陶磁器を概観して、赤色を多用した意味や想いについて考えます。そして、その4「九谷細描を生んだ「吹屋弁柄」」では「吹屋弁柄」の特性を、そして、その5「吹屋弁柄で描かれた九谷焼」では「吹屋弁柄」の特性を活かして描かれた佐野赤絵などの作品について観てみます。

引用資料①「佐野町史」(昭和56年佐野町史編纂委員会発行)

② 能美市ホームページ「したいこと、能美市だったら叶うかも 九谷焼 福島武山さん」

参考資料①「九谷焼330年」② 図録「斎田道開と佐野赤絵展」③ 「道開と赤絵作品図録」など

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