再興九谷の陶祖 本多貞吉
生 明和3年(1766)~没 文政2年(1819)

陶祖と呼ばれるに相応しい多大な功績
本多貞吉は、明和3年(1766)磁器先進地の肥前島原で生まれ、若くして諸国の窯を巡ってから、京の青木木米(明和4年〈1767〉‐天保4年〈1833〉、江戸時代の絵師、京焼の陶工)の窯で研鑽していたとき、木米に従い加賀へ行くこととなりました。その後、再興九谷に適した陶法や多くの陶工を生み出し「九谷焼の陶祖」と呼ばれるに相応しい数々の功績を残しました。
特に、若杉窯では、現在も原料として使われている良質の花坂陶石を発見し、それを原料にした素地に染付した生活雑器を量産し加賀藩の殖産興業の基盤を築いたこと、さらに、弟子の粟生屋源右衛門に古九谷風の色絵磁器のための絵の具を創り出すよう指導した結果、その絵の具が吉田屋窯、連代寺窯、松山窯などで古九谷風青手の再興に貢献したことは本多貞吉の大きな功績でした。
京焼 青木木米の窯場での陶歴
肥前島原は良質な陶石の産地である天草に近く、17世紀中頃から島原藩の御庭焼で染付を焼いていた地でした。おそらく、本多貞吉は島原で製陶に係わっていたと考えられ、やがて、高い志をもって陶磁器の新興の地 京都を目指して故郷を出たといわれます。そのころの京都は陶磁器の生産技術を確立しようと、各地の技術者を受け入れていたといわれ、貞吉はそれを知って、伊予大州、摂津三田など各地の窯で本窯の構築技術、陶石などの原料の品質や扱い方を修得しながら、京都へ向かったと考えられます。
貞吉が京に着いてからどのような経緯で、青木木米が寛政8年(1796)に粟田口で開いた窯で働くようになったかは不明ですが、おそらく、貞吉が各地の窯で構築技術、陶石などの原料の知識を修得した、優れた“窯ぐれ”(窯場を渡り歩く職人)であったから、木米が受け入れたと考えられます。
次のように、いかに木米が貞吉に信頼を寄せていたかを表す記述が、杉田博明著『京焼の名工・青木木の生涯』に載っています。木米が金沢に招聘される前年に磁器試作のため金沢に出かけるとき『留守中の窯は、肥前島原から粟田口に修業にきていた本多貞吉に頼んだ。(貞吉は)伊予大洲や摂州三田の窯でも働き、特定の窯を持たない“窯ぐれ”で、木米より一歳年長である。木米とはひょんな縁で仕事場に出入りしていた身軽な、しかし技量確かな陶工であった。剽悍(頑強)な風采で、いったん土を手にすれば、わき目も振らない職人気質な仕事ぶりに木米は仕事場の一角を与えていた』と書かれています。
春日山窯での陶歴
文化4年(1807)、青木木米が加賀藩からの招聘に応じて磁器を金沢の春日山で製作するために築窯や製陶の技術に明るい助工 本多貞吉と共に金沢に来ました。貞吉は木米が金沢の町年寄りや藩から加賀国の“国焼”となる磁器を製作するように要請されていたことを知り、未知の地 加賀国において陶石や陶土の見分け方から、築窯、素地の製造、素地に合わせた釉薬、焼成まで、製陶総ての分野で自分の力を発揮できると期待していたと考えられます。
その最初の機会が春日山窯での築窯でした。ただ、窯が築かれたものの、長雨のため、完成して早々の窯は自然乾燥が完全でない状態で、度々藩から催促され、とうとう初窯への火入れが行われました。案の定、窯壁に残った湿気のため、窯出しされた素地は磁肌が幾分黒ずみ、染付の発色が淡く薄いものでした。それには陶石にも一因がありました。当初の計画であった江沼郡九谷村の陶石を使わず(金沢から遠く運搬が大変であったため)、取り寄せ場所を「能美郡瀬木野村 勘定村」「石川郡 別曾村三子牛柑」「河北郡 山之上二俣柑 卯辰村」などに変えたことが原因でした。貞吉はこの事態に素地を精製することに努力したことで、その後、作品は木米の絵付と合わせて藩から評価されるようになりました。
ところが、木米が一年ほどで春日山窯の主工を辞して京都に戻ることになったとき、貞吉は春日山窯にとどまり引き続き窯を担うことにしました。そのときから、春日山窯の作品は交址写・絵高麗写・青磁・染付などが中心となりましたが、木米が去った後も木米風の呉須赤絵を写したものが製作されました。この呉須赤絵写しは貞吉が見様見真似で木米の作品作りをしたからできたと考えられます。さらに、貞吉が若杉窯に移った後も、春日山窯の維持改良などの面で支え、また、ここの本窯が一時閉ざされたものの、貞吉の若杉窯での弟子によって民山窯の本窯として蘇ることができたといわれます。
若杉窯での陶歴
本多貞吉は、青木木米が京に戻った後も、春日山窯に残り作陶を続け、加賀国で磁器生産の機運が広まるのを待ったと見られ、自らの経験を活かし磁器生産に必要な豊富で良質の陶石を探し始め、能見郡花坂村六兵衛山(通称モロミ山)に良質な陶石を発見しました。
文化8年(1811)、能美郡若杉村(現、小松市若杉町)の十村(他藩でいう大庄屋)林八兵衛から磁器を焼いてほしいと懇請されました。林八兵衛は文化2年(1805)から瓦の焼成を始め、茶人でもあったので、同じ窯で茶碗、水指などの茶道具を作っていましたが、春日山窯に留まっていた貞吉を招き入れたのです。
貞吉は、京都の寅吉、肥前平戸の平助、紀伊熊野の虎吉らを呼び寄せて、本格的な連房式登窯を築き、製陶能力の全般を高めるなど生産の体制を固めました。加えて、花坂村アサラ山でも良質な陶石を発見し将来の原料の確保にも努めました。これは加賀国の殖産興業の大きな原動力にもなりました。この一連の体制固めによって九谷焼の生産基盤が確かなものとなり、再興九谷の諸窯のためにも明治九谷のためにも大きな意義を持つものでした。
若杉窯では、加賀藩内での大量の生活食器への需要に応じて染付が順調に製作された一方で、貞吉は色絵磁器への需要も出ることを春日窯にいたときからわかっていたので、その製作に取りかかりました。開窯からわずか2,3年後の文化10年(1813)、肥前の名工 三田(赤絵)勇次郎が招かれ、伊万里風の色絵磁器(加賀伊万里)を製作することを始めたのもそのためで、若杉窯の製品種類に幅ができました。加賀藩郡奉行は若杉窯の盛況を見て取り、開窯5年目の文化13年(1816)に若杉窯を加賀藩の支配下に置き「若杉陶器所」と改称し藩窯としました。
おそらく、貞吉は伊万里風の色絵磁器で満足した訳ではなく、加賀国において古九谷(九谷古窯で焼かれた磁器)が伝世されていた地であることを肌で感じ取り、染付や伊万里風の磁器の作風が加賀国の“国焼”にはならいと思っていたと思われます。貞吉は、加賀国に根付いていた五彩の色絵磁器を再現するために必要な人材と技術を探求したとき、貞吉を頼って弟子入りしてきた14~5歳の粟生屋源右衛門の才能を見抜き、源右衛門を色絵磁器の陶画工として養成をしました。源右衛門は若杉窯へ来てから数年のうちに窯焚きや釉懸けから製陶技術全般にわたって指導を受けて一人前の陶工となり、さらに、若くして釉薬作りも絵付も担当することができるようになりました。
やがて、源右衛門は古九谷の絵の具により近い絵の具を創り出すことに成功しました。それは本人の才能にもよりますが、貞吉の卓越した洞察力、指導力と積み上げた経験によって可能であったといえます。この絵の具の再現はその後の九谷焼の絵付にとって大きな歴史的な意味を持ちました。吉田屋窯の「青九谷」で使われ、さらに松屋菊三郎によって引き継がれ、青手の様式が再興される道筋ができました。
貞吉は、単なる製陶技術者だけにとどまらず、源右衛門の色絵磁器の研究に誘発されたのか、自らも作品の製作を行っています。若杉窯の作品には、裏銘に「貞橘」と記した作品があり、染付のほかに青磁・瑠璃・赤絵南京・古九谷風な作品もあり、それに係わったとみられます。
本多貞吉の陶法を伝承した再興九谷の諸窯
貞吉は吉田屋窯などの再興九谷の諸窯で主工を務めた粟生屋源右衛門、吉田屋窯の石方轆轤の主工を務めた本多清兵衛(養子)などを育て、“人に技術がついて行く”のとおり、貞吉の門下にいた陶工や陶画工が加賀の各地で九谷焼の陶法を普及させ、若杉窯以降にできた再興九谷のすべての窯(小野 民山、吉田屋、佐野、連代寺、松山宮本、九谷本窯、)は貞吉によって築かれた窯が継承されたものか、本多貞吉の陶法によるものか、いずれかでした。
下記の表のとおり、若杉窯が加賀の磁器生産の中心的存在になると、多くの人材が集まり、その人材がまた各地に輩出され、または私淑した者が次々に現れたことがわかります。特に、山上松次郎は、貞吉が歿した後、文政5年(1822)に民山窯が開かれたとき、若杉窯を辞して、貞吉が築いた春日山窯の再開に尽くした陶工です。
| 小野窯 窯元 藪六右衛門 | 若杉窯で本多貞吉から陶法を学ぶ |
| 民山窯 陶工 山上松次郎 | 若杉窯で本多貞吉から陶法を学ぶ |
| 吉田屋窯 陶工 本多清兵衛 | 本多貞吉の門弟から養子になる |
| 佐野窯 窯元 斉田伊三郎 | 本多貞吉から学んだ陶法を築窯に活かす |
| 連代寺窯 主工 粟生屋源右衛門 | 本多貞吉から学んだ陶法全般を活かす |
| 松山窯 主工 粟生屋源右衛門 | 本多貞吉から学んだ陶法全般を活かす |
| 宮本屋窯 | 吉田屋窯を継承し、本多清兵衛から申し次を受け「八郎手」の素地を焼いたのが、若杉窯の陶工 木越八兵衛です |
| 九谷本窯 | 宮本屋窯を継承した |
| 陶工 山元太吉 | 若杉窯で築窯を修業し素地業を始めた |
