九谷焼の素地
磁器における素地は肥前において長い歳月を費やしてその製法が確立しました。その理由は、白い素地を造るためには、素焼きした素地に合わせた透明釉をかけ、1200~1300℃で本焼きしても貫入が入らず、またガラス層が表面に融着させて水を吸うこと(水漏れ)がなく、絵の具を塗っても滲み込むことがないように焼成しなければならなかったからです。焼成された良質な素地ではガラス層が透光性を増し、硬く滑らかな表面は透明感のある白い地肌となりました。そうなれば、素地の表面がザラザラしていなく、繊細な絵を描くことができ、白い素地の上で発色した絵の具の色が一層鮮やかに見えました。
一方で、肥前の素地の製法を持ち帰って築かれた九谷古窯では、造られた素地が半磁胎であったことが多く貫入も見られ、しかも鼠素地でした。その後、再興九谷の諸窯が次々誕生しても、しばらくの間、白く滑らかな素地が造られたことがなかったのです。それからして、江戸末期に赤絵細描画が絵付できるようになったのは滑らかで白い素地が造られるようになり、明治時代には海外からこれまで経験したことのなかった成形を施した大量の素地が求められましたが、当時の名工が素地窯を改良してその要望に対応しました。この九谷焼の素地の発展の経緯について古九谷から初めて再興九谷を経て明治九谷に至るまでの当時の素地造りをここにまとめました。
古九谷の素地
大聖寺藩主の命で製陶技術の修得のために肥前に派遣された後藤才次郎は、帰郷の後、陶石の見つかった九谷村で田村権左右衛門を指導して九谷古窯を開ききました。なかなか、肥前のような白い素地がでず、鼠色の素地に絵付けしました。結局、十分な素地が焼成できなかったため、肥前から買い入れて作陶を続けました。
詳説;古九谷の素地
再興九谷の素地
江戸末期、青木木米と共に金沢春日山窯を築いた本多貞吉はその後、若杉窯で陶法を完成さました。この陶法は“人に技術がついて行く”といわれるように、門人によって諸窯に広がりました。諸窯では素地窯が築かれ、その窯固有の陶土を使って素地を焼成してその素地の品質に相応した作風や色合いの再興九谷が制作されました。
詳説;再興九谷の素地 金沢地方(春日山窯/民山窯)
詳説;再興九谷の素地 能美・小松地方(若杉窯/小野窯/佐野窯/庄三工房/連代寺窯)
詳説;再興九谷の素地 江沼地方(吉田屋窯/宮本屋窯/木崎窯/松山窯/九谷本窯)
明治九谷の素地
