古九谷の素地

  • 主宰者   後藤才次郎
  • 陶 工  田村権左衛門
  • 陶画工  大聖寺藩士(数人)

古九谷は17世紀の中頃から18世紀にかけて大聖寺藩九谷村において焼かれた色絵磁器で、その素地造りは困難を極めました。藩主の命を受けた後藤才次郎が肥前に製陶技術の修得のために派遣されて帰藩した後に築かれた、最初の素地窯は、明暦元年、陶石の見つかった九谷村で田村権左右衛門を指導して築かれました。古九谷を焼いた九谷古窯跡から江戸時代前期に築かれた登り窯(素地窯)2基と絵付窯が発掘され、そのうちの1基は当時の磁器技術の最先端を行った有田焼の技術で築かれたといわれます。

素地を造る工程は、陶土を成形しそれを乾燥させて陶土内の水分を完全になくした上で、釉薬をかけないまま800℃前後で素焼きするところから始まります。これは次の本焼きのところで釉薬の溶融を良くするために素焼きします。次に、素焼きの成型品に透明度の高い無色の釉薬をかけて1200℃前後で焼くと、釉薬が溶けてガラス質の膜で成型品の表面が覆われて白色で光沢感のある素地に仕上がります。

ところが、肥前・有田が幾度となく改良を重ねて磁器の素地を造ることができた歴史があったことに比べて、九谷古窯では、登り窯を築いたのが初めてした。窯の壁の乾燥度合い、陶土と釉薬の品質と相性、焼成温度の制御技術などが未だ究明されていない中、試行錯誤しました。出来上がった素地は、半磁胎のものや、上の画像左のように、九谷陶石には比較的に鉄分が多く含まれていたので“水簸(すいひ *)”設備で鉄分を除いても、やや青味がかっている色が着いた素地になり、あるいは釉薬のために鼠色で不透明な表面の素地になりました。上の画像右の作例は鉄分を充分にとれなかったために生じた黒い点が表面に出たと考えられます。

(注)水簸(すいひ)- 水の力だけで上質の陶土をつくるために、砕いた陶石を水の中に入れ、沈む重さの違いを利用して、長い時間をかけて汚れや鉄分などの不純物を沈殿させて取り除き、粒をそろえる方法

また、仕上がった素地に絵の具で絵付したとき、素地に融着した釉薬が絵の具と同一物ではないため、約800℃で焼いて溶融した後、絵の具の一部が素地から剥離した作品(上の画像)がありました。

その後も、多くの資金を投じて登り窯の改造、陶土や釉薬の改良を繰り返したものの、上手く行かず、また九谷村が寒冷地であったため、素地造りを断念し、加賀藩の後ろ盾により有田から素地が大聖寺藩に移出され、大聖寺で絵付されました。

 

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