再興九谷の素地 金沢地方

再興九谷は青木木米と本多貞吉が金沢春日山に窯に築くことから始まり、その後、本多貞吉が若杉窯に移って九谷焼のための基礎的な陶法を築き多くの陶工を育てました。貞吉の没後、若杉窯で貞吉から陶法を教わった山上松次郎が春日山の民山窯に移りました。

能美・小松地方の素地;若杉窯/小野窯/佐野窯/庄三工房/連代寺窯

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春日山窯の素地
  • 窯元(主宰)   加賀藩 金沢町年寄 亀田鶴山
  • 主工/助工    青木木米/本多貞吉
  • 陶画工      青木木米/(民営後窯元)松田平四郎・任田屋徳右衛門

春日山窯は、文化4年(1807)、金沢春日山に青木木米が助工の本多貞吉と共に登り窯(素地窯)を春日山に築いたことから始まりました。窯を築いたものの、長雨のために火入れしても窯から湿気が十分に取れていなかったため、初窯の素地は磁肌が幾分黒ずみ、染付の発色が薄いものでした。

また、木米らは金沢に来る前に九谷村の陶石と金沢茶臼山の土などを原料にして試焼したところ、木米の意にかなった素地ができたので、窯を開く決断をしましたが、九谷村が金沢から遠く冬には積雪もある不便な地であったため、原料の採掘場所を「能美郡瀬木野村 勘定村」「石川郡 別曾村三子牛柑」「河北郡 山之上二俣柑 卯辰村」などに変えたことが影響して、上の画像のように、当初の素地は小砂が混じり貫入が入っています。また原料の影響で磁胎に濁っています。

この事態に対して貞吉は精製された素地に改良され、上の画像のようになり、呉須赤絵写しのほか、日用雑器の染付、交址写・絵高麗写・青磁なども作られ、一部には真っ白に近い素地もできるようになりました。

その後、木米が京都に戻った後もこの窯で木米風の呉須赤絵写しが制作できたのは、貞吉が若杉窯に移った後も貞吉が窯の維持改良の面で支えたからと言われます。

(注)春日山窯の素地窯は窯元が幾度か変わって明治まで存続し、それぞれの特色を出しました。春日山窯の窯は民山窯、陶器所並陶器竃、向山窯などに引き継がれたことから、春日山(卯辰山)は金沢地方における焼物づくりのメッカと言われるようになりました。

民山窯の素地
  • 窯元    加賀藩士 武田秀平(号は民山)
  • 陶工    山上松次郎
  • 陶画工   越中屋平吉/鍋屋吉兵衛/任田屋徳次

民山窯は、文政5年(1822)、加賀藩士 武田秀平(号は民山)によって金沢に開かれました。秀平は春日山窯が閉じられたことを惜しみ、春日山窯を再興することを思い立ったといわれたので、民山窯の素地窯は本多貞吉が築いた春日山窯の窯を復活させるため、陶工に若杉窯で貞吉から陶法を学んだ山上松次郎を充てました。

陶石は能美郡より運び、陶土は金沢近郊のものを使ったといわれ、造られた素地は石物(陶石を砕いたものを用いて作ったものを1300度程度で焼いたもの)と呼ばれました。その素地は硬く、しっかりとしていて、薄い鼠色を帯びた磁胎のもの、あるいは淡い茶褐色(上の画像)を帯びたもので、時には全体に荒い貫入があったので、上質といわれる素地は少なかったといわれます。春日山窯の素地色に似たところがあり、同じ金沢近郊の陶土を使ったとみられます。このような素地のため、全体を赤色で細描した図案や文様で器面を埋めた作品が多くあり、また、その精緻な絵付と赤色の濁った色合い(臙脂赤といわれる)のため、後の宮本屋窯の八郎手とよく比較されます。

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